[EPISODE 50] アメリカ行きの準備。田中先生の生徒さんからのメール。
先週の水曜日に社員研修旅行から帰ってきてから、アメリカ行きの準備に毎日夜遅くまでかかってしまい、四方山話を書く時間がなく申し訳ありません。皆さんから、旅行中の仲や岩永はどうでしたか?というメールをいただいていましたが、今回彼らは四方山話を意識してか?B型の特性を抑えていたようです。ただ、特別参加の○ール○ックスの○木が、バーベキューのときにお酒を飲みすぎて壊れてしまい、公園へ来た人に大声で話しかけたり、ハンモッグで気持ちよく昼寝していた大ちゃんをメチャメチャに揺さぶって、ハンモッグを破いて彼の怒りをかっていました。次の日、素面になった○木は、自分のやったことをまったく覚えてなく、仲の何気なく言った「バーベキュー禁止令!」に過剰な反応をしていました。
昨日も、彼から電話がかかって来た時、彼の修理の出来を褒めたら、「でも・・・、バーベキューは禁止ですよね?」と愁傷に言っていました。 愉快、愉快。これで当分遊べる!
さて、今回のアメリカ出張は、いつもと違って色々と準備をしなければならず、四方山話を書きたくても時間がとれずどうにもなりませんでした。でも、なぜ準備が必要だったかは、機中で書きたいと思いますので、楽しみにしていてください。
先週、アメリカでも四方山話を書けるようにと、ソーテックのA4サイズのラップトップから東芝のLibrettoというB-5サイズに買い替えました。ところが、使ってみると今までより画面と字が小さいため、すぐに目が疲れてしまいます。しかたがなく、昨日、エマニエル君が遊びに来て暇そうにしていたので、退屈しのぎに彼を連れて老眼鏡を買いに行きました。ついでに検眼をしていただいた所、ショックなことに視力も落ちていて、老眼鏡だけでなく、めがねも買わなければならなくなってしまいました。コンピュータといい、2本のめがねといい、アメリカへ行く前にどえりゃ~出費になってしまいました!
最後に、今回ホームページの表紙で、岐阜のある中学校の田中先生とこの春に卒業された生徒さんから送られた寄せ書きギターを掲載させていただいたのをご覧いただいた事と思います。田中先生から目に涙を浮かべながらこのギターのことをご説明いただき感激しました。本当は先生になりたかった私としては羨ましい限りで、皆さんにも是非見ていただきたかったのです。もっとも、私は学生時代にバンドばかりやっていて、教職課程をとり忘れてしまいましたのでなれるはずもなかったのですが・・・。レオスキ兄い、確かにO型はすぐに忘れてしまいますね。
*大阪のYさんからのメール
田中先生のギターはホロリとさせますね。凄く暖かな気持ちになりました。
田中先生の元生徒さんも、このホームページを見てくれていたんですね。
*沙恵です!!ホームページ見ました!!!!なつかしいもの見せてもらいました!!!先生、そのうち町で会うと思うんで、そのときは声かけてください!!!
*田中先生の元生徒です。懐かしいものを拝見させていただきました。元3-Cの水野というものです。とてもよい先生ですからよろしくお願いします。
では、次回はアメリカからです。こうご期待のほどを・・・。
■ [番 外]ブルース・カーニバル・レポート |
Date : 2002/05/26 (Sun)
[番 外]ブルース・カーニバル・レポート
社長その後、体調如何ですか? 口の悪い渡辺兄です。
アメリカ出張だそうですね。気をつけて。
STONESは、かなり追加公演が決まり盛り上がっているようです。
基本的には、一都市で三公演でスタジアム、アリーナ、クラブと回るようです。日本でもドーム以外で見たいな。
※この人は、ストーンズの1972年初来日が中止になった時、頭に来て外務省へ嫌がらせの無言電話したそうです。でも、5回かけてから、もったいないと止めたそうです。こういう所が意外に可愛いですね。
昨日、「ジャパン・ブルース・カーニバル」に友達と行って来ました。
天気も良く(野音です)最高の雰囲気の中、ビールを飲みながらブルースを聴けるなんて幸せです。もう10年位通っている。
今年から出演者が一組減り、三組となった。最初は日本のバンド。俺の好みじゃねえのでノーコメント。
次は「ジミー・ボーン」BASSレスでいつもの1956年のストラトではなかったが、指弾き特有の柔らかなトーンを紡ぎ出していた。それにライブ慣れしているので、全体の構成がうまい。
トリは「ミスター・バディ・ガイ」もう何回みても凄い。コアなブルースファンは、文句があるようだけど、自分のような中年ロックファンにいわせればめちゃ楽しいステージだ。ボーカルはともかく、ギターは冴えまくっている。ストラトの特性を生かし、VOLを限界まで絞ったり、ジミヘン、クラプトンのフレーズをちりばめたり、完全にノックアウトされた。
長くなりました。渡辺兄レポートでした。
■ [号 外] |
Date : 2002/05/26 (Sun)
5月25日、ジミー・ペイジさんが、新宿をうろうろしていたそうです。
レポート By ロン・タニグチ君
[お知らせ]
愛読者の皆さんへ
お元気ですか?私は、過激な社員研修旅行も終わりのんびりとしたいところですが、この度、5月31日~6月17日までアメリカへ出張することになりました。
今回の目的は、ギターの買い付けではなく、コレクター達の家を訪れて親交を暖めることです。今は譲ってくれませんが、いずれ譲っていただけるギター達を確認に行ってきます。どんなギターが見れるのか楽しみです。皆さんの中で、もし、こんなギターがあったら見てきて欲しいというものがありましたら、遠慮なくご連絡ください。
それから、アラバマに住んでいるパートナーのジェリーに誘われているので、彼の町まで行ってきます。
この旅の様子は、四方山話でできるだけオンタイムにお知らせするつもりですので、お楽しみに・・・。
[EPISODE 51]アメリカ・シリーズ第1弾。 いざ、アメリカへ出発。我が親友ジェリーのこと。
今、機上の人です。さっき名古屋空港を飛び立ったばかりに、この四方山話を書き始めました。
5月31日午後5時。エアー・カナダ機で名古屋空港から、バンクーバー経由、デンバー乗換え、アトランタ午後11時25分着という、ロング・トリップへ出発しました。
名古屋空港は、成田空港や関空などの大きな空港と比較すると小さくて、街からも近いので非常に出国が楽です。できれば大きくするために移転するのはやめて欲しい・・・と思うのは私だけですかね?
今回、レスポールとストラトを日本から持ち出すために、税関へ申告したりしていたので、2時間の待ち時間はあっという間でした。あっ、もう旅立つの目的のヒントを言ってしまった!
実は、この旅はアラバマに住む昔からの友人ジェリーからの誘いだったのです。
(今日は、バンクーバーへ着くまで8時間以上あるので、普段書けなかったことを書くことにしましょう)
アメリカへ行く目的を説明する前に、我が親友ジェリーのことを少し話したいと思います。彼は、長年テネシーワルツで有名な歌手ブレンダ・リーや、大勢のカントリー歌手のためにベースを弾く傍らで、ナンシーのためにミュージシャン仲間からヴィンテージ・ギターを集めてくれています。彼とは、1978年以来、数々のヴィンテージ・ギター伝説を作ってきましたが、その中でも特に傑作だったのは、彼が10年ぐらい前ナッシュビルのカントリー・バーでベースを弾いていた時のことです。ステージ間に老夫婦が彼に声をかけてきて、「私は、君のバンドのギタリストが使っているGibsonレスポールと同じものを持っている。ポイズンとかいうロックバンドのギタリストが何万ドルで売ってくれというので、明日Gibson社へ見せに行って、本当に価値があるのだったら、そのギターを売ってこの引退旅行で使っている車を買い換えるつもりだ。もし、見たいならトレイラーに来なさい。」と話したそうです。その時、ジェリーは、これは絶対にヴィンテージ・レスポールだ!と心の中で叫んだそうです。見てびっくり。ほとんど未使用のLPstd‘59。それもタバコ・サンバースト!言うまでもなく、私達は、老夫婦に新車を進呈してそのレスポールを手に入れました。
それからもうひとつ。彼とヴィンテージ・ギター・ハンティングをした時の話。
ナッシュビルからメンフィスにかけてヴィンテージギターハンティングした時のこと。旅の最初は、カール・パーキンスが使っていたES−5 50‘s ブロンドが見れて楽しかったのですが、旅が進むに連れて誰が見ても結構やばい場所のパーンショップへ入っていくではありませんか。彼は、「ここはかなりやばいけど・・・、極たまにいいのが入るんだ。欲しいギターがなければすぐに退散だ!」と説明しましたが、二人でも行っても危険に感じる場所をよく一人で来るなあと感心しました。その時から、ギターとの出会いについてもう少し深く考えるようになりました。そして、こうやって彼が苦労して見つけてくれたギターは、本当に欲しい人へ渡すのが私達の仕事だと思いました。
さて、話は戻ります。なぜ彼が私をアメリカへ誘ったかをお話していきたいと思います。彼は、私と初めて会った時から、なぜギターを弾いて生活しないのか不思議だったようです。会う度にそのことを質問してきますが、もうどっぷり楽器店の水に浸かっていた私はその明快な答えを忘れていました。ところが、彼が昨年9年ぶりに日本へやってきて、東京のバンドに飛び入り出演してくれた時のことです。私が、1980年代までのようにオールマンやブルースナンバーを演奏していたと違って、オリジナル曲を演奏しているのにびっくりしていました(どうしてオリジナルをやるようになったかというと、1991年にディッキーさんと会った時、「オリジナルをやれ」と言われたからです)。
それからは、彼が日本にいる間、やけにオリジナル曲をスタジオで録音することを勧めるのです。断る理由はないのですが、メンバーが忙しくてライブの一発録音するのが精一杯なことを説明しました。彼は、「じゃあ、俺たちが手伝うからアメリカへ来て録音すればいいじゃないか?」と軽く言うのです。その時は、あまりその気ではなかったのですが、その前に彼の「なぜギターを弾いて生活しなかったか?」という質問の答えを思い出してから、彼の誘いを考えることにしました。当時の日本の未成熟な音楽事情や、自分が不器用であらゆる音楽に対応する能力がなかったなど・・・、ああでもない、こうでもないと考えて、やっとその本当の答えを思い出しました。それは、1970年代初頭のこと。レコードから聴こえたクリーム、レッド・ツェッペリンそしてオールマンなどのすごいギターの音が、自分には出せなかったことでした。それを気にしている最中、しかも大学生最後の年にクラプトンが初来日して、初めて耳にするEX‘58の音にノックアウトされて、自分には絶対にあの音は出せないとプロ活動をやめました。その後、楽器店に入社してヴィンテージレスポールとかかわるようになってから、出せなかった音は、ギターの腕前以上にギターとアンプに要因があったことを発見しました。でも、その時はもうすでに自分の好きなブルース・ロックは過去のものになっており、クロスオーバー、フュージョン、テクノミュージックなど、どんどんデジタル化が進捗している時代になってしまったのです。後で知ったのですが、1976年頃に出たPlayer誌で、Duane Allmanの特集記事の前ページが、当時の最新鋭だったアナログ・シンセサイザーの特集だったのです。振り返ってみると、これは“音楽の変化”という象徴的な出来事だったのですね。
ところが、時代は回るといいますが、1980年代後半にナンシーを始めて、もう一度自分のためにギターを弾こうと思い立ったころです。それまでまったく無視され続けてきたブルース・ブームが再燃したのです。店には、若いみんながそのノウハウを聞きに来てくれて、それまで世の中の流れとは無縁だった私達の世代は、周回遅れであってもまるでトップを走っているかのような雰囲気でした。当初、すぐに流行は違うところへ行ってしまうと思っていましたが、まさか10年以上もブルース・ベースのロックが流行るとは思っても見なかったです。しかも、スーパー・ロック・ギタリストがアコースティックでグラミーを取っちゃうなんて、その前だったら誰も信じられない出来事でした。
(今日は、時間があり過ぎて脱線し続けそうなのでこの辺で本題に戻ることにします)
でも、ちょっと眠くなったので、この話は“つづく”という事にしましょう。
[EPISODE 52]アメリカ・シリーズ第2弾。 旅の目的。
飛行機が結構揺れて、今、目をさましました。でも、まだバンクーバーははるか遠くのようです。
では、今回は本当に旅の目的をお話しましょう。
“あの音が出ない”と諦めてから30年。
その間に、I楽器店に勤めていた20代半ば、持っているギターを2代目ナンシー(ES335)だけ残して全部売って、しかも毎日の昼食をのり弁にして、サンバースト・LPを入手してその音にびっくりしたり、「Duaneのタバコ・サンバースト・レスポールが手に入る」と今なら誰でも簡単にわかりそうなトリックに騙されてお金をとられそうになったりして、ヴィンテージ・ギターへの探究心は本当に馬鹿丸出し状態でした。
今振り返ると、それらの経験は、音の勉強ばかりでなく、いい人生勉強になったと尊いものに思えます。
ナンシーを始めてから、“音についてはすべてギターが語る”という言葉をよく皆さんにお話することと、ほとんど前金をいただかないのはこの自分の経験から来ています。音のことはまだしも、あの苦痛だけは絶対皆さんに味合わせたくないです。似た経験した方ならおわかりと思いますが、お金を払った先が音信不通になったり、頼んだギターがちっとも来なかったり、ギターが来ても話のレベルじゃなかったりしたら、どう思います?私みたいにギター・クレイジーじゃない限り、大抵の人は懲りてギターに対する夢も何もなくなってしまいます。
この話は中身が濃すぎ、思い出しながら書いていたら疲れてしまいました。また“つづく”にさせてください。 就寝。
[EPISODE 53]アメリカ・シリーズ第3弾。 今度こそ話す旅の目的。
単刀直入にお話します。
今回のアメリカの旅は、アラバマにあるマッスル・ショールズ・スタジオで、ヴィンテージ・ギター・サウンドのレコーディングの目的のためです。先に書いたように自分が出したいギターの音が出せるように近づいた事。自分が表現したい音楽が確立してきて、それを手伝ってくれる仲間が現れて、それを応援してくれる人達が増えてきた力が、今回海を渡ることに繋がったのです。
3月後半、ジェリーから「6月にこちらへ来て例のレコーディングをしよう。スケジュールは大丈夫?プロデュースや参加メンバーは、ひょんなことから信じられない人達が手伝ってくれることになったから楽しみにしてて。まったく私も興奮しているよ!」と電話がありました。その時、彼からこのセッションに参加する可能性がある有名ミュージシャン達の名前を聞きましたが、私はすご過ぎてとても信じられなかったです。その後も、どんどんすごい人達のリストが送
られてきました。彼は、私がどういう音楽をやっていて、どういう音を出したいかを理解してくれていて、そして皆さんにヴィンテージ・ギターの音を聴いていただくためにライブ展開をしていることも知っていますが、はたしてその人達にどう説明したか聞きたくなりました。しかも、その時は、まだ録音したい音源も送っていませんでした。
その質問に、ジェリーは次のように淡々と答えました。
「彼は、日本人の親友で、今ヴィンテージ・ギター・ショップを経営している。ギターも弾けて歌も唄える、ソング・ライティングもできる仲間なんだけれど、Duane Allmanが大好きでマッスル・ショールズ・サウンド・スタジオでレコーディングするためにメンバーを探していると言っただけだけど・・・ね。それから、そのCDは決してメジャーで売られるものじゃないことも説明したら、そんないい事なら是非俺にも参加させてくれと候補者が増えちゃったんだ。もっともプロデューサーを引き受けてくれたJさんはものすごく人徳がある人で、その人がみんなに声をかけてくれたことも大きいね。あとZZ TOPのオフィスに所属していたキーボーディスト兼プロデューサー(キングスX等)サムテイラーも顔が利くので、そちらからの紹介も多かったな。」
そういう人達は、知らない人とはやりなくないとか、有名か無名かが気にならないのか?と聞くと、「そういう人もたまにいるけれど、そういう人は2流か3流だよ。人や音楽ジャンルの好き嫌いはあるだろうけれど、受けた要望にはちゃんと応えるプロだよ。心配する必要はないから。破格なギャラでいいと言ってくれるだけでも大したもんだと思うよ。」
当初は、ベースにジェリー、キーボーディストにジェリーの友人サムテイラー、ドラムにジェリーのバンドのドラマーのセットでも十分だと思っていました。それ以上に実力のある有名な人達が手伝ってくれることはメチャメチャうれしいんですが、いくら彼らがギャラをお友達価格にしてくれるとはいっても、渡米するころには当初の予算を予算をはるかに超えてしまいました。
しかも、先週CD音源を送ったところ、Jさんは私の音楽と音を気に入ってくれて、プロデューサー以外にもエンジニアやマスタ-リングまでも引き受けたいと申し出てくれました。4日間のレコーディング予定を6日間に延ばして、もしものためにもう1日確保してくれました。すべてアナログで録音してからデジタル化するそうです。それに、レコーディングする時間が足りないのでボツにする予定だった曲を絶対にやったほうがよいとも助言してくれました。結構彼のやる
気が伝わってきて頼もしい限りです。そして、こちらへ来るまでにもっといろんなミュージシャンを探しておくからとも言っていました。
もう、こうなったら、野となれ!山となれ!ですね。いくとこまで行きましょう。お金をケチって、いい音が録音できなかったほうが悲劇ですからね。
ここでは、まだにわかに信じがたく、参加してくれるミュージシャン達のことはとても話す勇気はありません。実際にお会いしてからその人達の名前を明かしたいと思います。
就寝パート2。
[EPISODE 54]アメリカ・シリーズ第4弾。 レスポールが出てこないし・・・。
今、バンクーバーに着きました。
今回は、この四方山話を書いていたこともあって、あっという間にアメリカ大陸へ到着ような気がします。バンクーバーで降りるのは初めてだったのですごく興味がありました。しかもカナダでアメリカの入国手続きをするなんて不思議です。さっそく、アメリカへトランジットするカウンターでチケットチェックをしてもらい、バッケージクライムへ行きました。最初に降りたのでスムーズ、スムーズ。こりゃあ、簡単に入国手続きが終わるなと思ったら、そうはカナダは下
ろしてくれませんでした。バッケージは出てきたものの肝心のレスポールが入ったアンビルケースが出てきません(※ストラトはばらしてスーツケースの中)。どんどん皆さんが先に行ってしまい、とうとう一人その場で取り残されてしまいました。横浜のIさんに似た気のいいお兄さんがやって来たので、「ギターが出てこない」というと「えっ!もうThat‘s itだよ」と首をかしげるのです。そして「ちょっと待ってて。今下へ行って見てくる」と降りていきました。しばらくして、意気揚々とアンビルケースを持ってきてくれました。それから、「さっき見せてもらったチケットでわかったんだけど、デンバー経由アトランタへはエアーカナダ航空ではなくユナイティッド航空だよ。今ユナイテッドの担当者を呼んであげる」と親切に手配してくれました。いったいどうなっているの?旅行会社のH.○.Sさん頼むて!しっかりしてくれよ。もし、一人旅で要領がわからない人だったら大変だったよ!でも、入国審査は簡単だったので、まあいいかあって感じ。 その時日本時間で午前2時。
バンクーバーで乗り換え待ち時間が3時間ありましたが、もうろうとしているのでちっとも気になりませんでした。※アメリカの乗り換え待ち時間は、3時間や4時間なんてざらです。でも普段の生活ではうんざりしますが、結構ボーッとしているだけで時間が過ぎていきますので、初めて海外旅行の人でも大丈夫です。それよりも、ものすごく広い空港の端から端までを乗り換え時間10分ために猛ダッシュするほうが寿命を縮めます。
バンクーバーからデンバーへの機中で、事件がありました。それは、通路を挟んだ少し前の席のお婆さんが発作を起こしてしまったのです。結構まずそうな雰囲気でした。でも、スチュワーデスさん達と乗り合わせていた女医さんの適切な応急処置がすばやくて、なんとか一命を取り留めたようでした。正常になるまで約2時間付きっきりで看護されていました。こんな緊迫した状況に始めて居合わせましたが、すぐに対応するアメリカ人のボランティア精神には敬服しました。もし、日本で同様なことが起きたら、誰もがこんなにすばやく手伝うのだろうか?と考えてしまいました。
今、アトランタへもうすぐ到着します。フライトの前、私の席からカーゴが私のバックとアンビルケースを積み込むところを確認しましたので、前みたいにどっかへ行ってしまうことはなさそうです。あとは、アトランタ空港に迎えに来てくれているジェリーが、エアーカナダ航空ではなく、ユナイテッド航空と察ししてくれることを祈るばかりです。
今夜は、彼のおばさんアント・ベッティさんのところへ泊めていただきます。彼女の家は、アトランタ市郊外の森の中にあり、映画「風と共に去りぬ」に出てくるような大きなお屋敷です。今一日1650キロカロリーに食事を抑えている私にとっては、1988年にお邪魔した時の様に、ものすごい量の食事が用意されていないことを願うばかりです。なぜならば、その時は日本から私達が来るのをとても喜んでくれて、朝から信じられない種類と量を作ってくれていたので
す。残して申し訳ないと、今までに食べたこともない量をいただきました。しかし、「遠慮しないで」とベティは、何度も何度も私とジェリーの皿に盛ってくれたのです。
つづく。
[EPISODE 55]アメリカ・シリーズ第5弾。メイコン訪問。Duaneの旧友宅を訪問、
ビッグハウスでカーストンさんと再会、そしてH&Hで昼食
6月1日。朝、気分良くおきて、アントベティと朝食をとった後、すぐにDuaneとベリーの墓があるメイコンへ出発しました。
アトランタから約2時間かけてハイウェイ75号から475号に乗り換えてメイコンへ入り、まず、このレコーディングにキーボードで参加してくれる大切な人に会うことにしました。
その人とは、Duaneの旧友ポール・ホーンスビーさんです。彼は、オールマン・ブラザーズ・バンドの以前にDuaneとグレッグと一緒にアワーグラスというバンドを結成していて、その後、オールマンはもちろん、マーシャル・タッカー・バンド、チェーリー・ダニエルズ等のサザン・ロック・バンドをプロデュースして、数々のゴールドディスクを獲得した人です。
なぜ、ポールさんが今回のレコーディングに参加してくれることになったというと、実は明日会うプロデューサーがポールさんを紹介してくれたのです。ポールさんは、このセッションをものすごく楽しみにしてくれたそうです。会ってすぐに打ち解けあうことができて、彼のスタジオにあるアワーグラス時代のレスリー・スピーカーやグレッグがフィルモアで使ったウィリッツァー・ピアノを見せてくれました。私が車からレスポールとストラトを持ち込んだこともあって、彼はノーキャスター、テレキャスター‘53、ストラト’64を次々と出してきて見せてくれました。どうしてテレキャスが好きなのか?と質問すると、「そりぇあ、Duaneはテレキャスが大好きでファズ・フェイスでぶっ飛ぶような音を出していたんだ。当然、弟のグレッグも兄貴にあこがれて、どこかでブロード・キャスターを買ってきた。だから、アワーグラスはテレキャス・バンドだったんだよ。Duaneはストラトネックのテレキャスを弾いていたが、このノーキャスターもよく弾いていたんだ。」と答えてくれました。それから、アワーグラス時代についてこんなことも話してくれました。「俺たちは、レコードのようなポップな曲はまったく演奏しなかった。すでにステイツボロ・ブルースやオールマンでやっている曲は演奏していて、それがすごく評判だったんだ。ロスのウイスキー・ア・ゴー・ゴーでは、バッファロー・スプリング・フィールドのニール・ヤングやステファン・スティルス。ポールバターフィールド。エリック・バートン。そしてグレイトフル・デットの連中がよく見に来て、いつも最後は大セッション大会になっていたんだ。」
それからDuaneがスライドを練習した時のことを話してくれました。「まったく、今思い出しても気が狂いそうだ。タジ・マハールとライクーダーを観にいった時、彼らのステイツボロ・ブルースを聴いて“俺もスライドをやりてぃ!”と彼はさっそく練習を始めたんだ。どうやってスライドを弾けばいいか知らないから、彼は毎日調子はずれのスライド弾き倒すから頭が狂いそうだった。でも、さすがにすぐうまくなってくれたので、周りにいる俺達は本当に助かった
よ。1968年に彼はトップがはがしてあるレスポールを手に入れたんだ。多分これが彼の最初のレスポールだと思うな。」。
グレッグが1967年に作った名曲メリッサについて聞いて見ると、「アワーグラス時代はあの曲を演奏したことがないんだ。彼はいったいいつ作ったんだろう?」とまったく知らなかったようだ。
もうこの地点で、私はレコーディングのことを忘れて、気分は完全にDuaneのミーハー化していました。彼の運転でメイコン市内を案内してくれて、オールマンのファーストを撮影したビルや、1969年ポールさんとDuaneがマッスルショールズから引っ越してきた時にDuaneが最初に借りた家など、ゆかりの場所を教えてくれました。
ポールさんとは、Duane達が売れない頃メンバーと共同生活していた通称ビッグハウスへ訪れた後、Duane達がバンドで食えない時に食事を出し続けてあげた“H&H”というレストランで昼食をとりながらレコーディングの打ち合わせして別れました。
このH&Hの今の場所はDuane達が来ていたところではなく、その後名所になったので引っ越してきたそうです。そこにあったジュークボックスにDuaneのアンソロジー2がはいっていたので嬉しくなってしまいました。
しかし、ポールさんと私の会話は、時々不思議な雰囲気になります。なぜなら、彼にとっては昔の仲間であり、私にとっては会ったこともないヒーローだったからです。実体験と文献でのみしか知らない違いですね。彼は同じ街に住みながらDuaneの墓は行ったことはないと言っていました。ジェリーは「ポールさんは、Duaneは心の中で生き続けているからだろう」と言っていました。
ビッグハウスでは、カークと会えるかと思ったら、やはりオールマンがツアーへ出て行っているので会えませんでしたが、奥さんのカーストンさんと再会できました。ちょうど入り口の掃除をしていて、わたしの顔をみるなり「久しぶり!」とやさしく迎えてくれました。そして、すぐにカークへ電話して私が来ていることを話しました。その時、カークはサンフランシスコ空港にいて、ジェイモを待っているそうで、「なぜ、カリフォルニアにいないんだ」と怒られました。
実は、レコーディングのために来ていることを話し、今回のオールマンのライブを残念ながら観にいけないので、皆さんへよろしく伝えて欲しいと頼みました。
カーストンさんは、Duane達の珍しい写真をいっぱい見せてくれるのですが、とても時間がなく、もし来れたら6月10日か11日にもう一度やってくる約束をして別れました。
その後。1988年以来訪れていなかったDuaneとベリーの墓へお参りして、バーミンハムへ向かいました。行く途中、今回こちらでジェリーの仲間から借りるマーチンD−28‘67,OOO−28’67、ドブロ、オールド・フェンダー・デラックス等をピックアップしながら行きました。 今夜は、明日いくマッスルショールズへできるだけ近いところまで行くことにして泊まることにしました。
もう、今は午前2時52分です。
明日から本格的なレコーデングにはいります。そちらのほうへ気持ちを集中したいと思います。たぶん数日間は四方山話は書けないと思いますので、次回をお楽しみに。
つづく。
[EPISODE 56]アメリカ・シリーズ第6弾。マッスル・ショールズ・サウンド・スタジオ(1)
今日はセットアップの日だったので、少し書くことにします。
アラバママは、非常に蒸し暑いです。もしかしたら、この蒸し暑さは名古屋以上かもしれません。常にエアコンを入れていないと、すぐに汗ばんでしまいます。エアコンにあたっているとすぐに喉が乾くため、ペプシが半年前に出した“ONE”という1キロカロリーしかない超ダイエットコークみたいなものを飲んで、喉を潤しています。マッスルショールズへ向かう時、やたらバス釣り用ボートを引っ張っている車とすれ違います。昨日、ポールさんから、「Duaneのアンソロジー1のアルバムジャケットで彼がバスを釣っているところはマッスル・ショールズの近くだから、もし、時間があったら一緒に釣りに行こう」と誘われました。ここは、バス釣りの本場だけあって大きな湖、川そして沼がいっぱいあ
り、車から釣れそうないいポイントがやたら発見します。(ウーム、トップのルアーを持って来るべきだった!)
マッスル・ショールズへはいると、すぐにフェイム・スタジオがありました。ここもDuaneがギターを弾いたところで、マッスル・ショールズ・サウンド・スタジオとともに世界的に有名なところです。今回、このフェイムスタジオを使わなかったのは、もうデジタル化されていて、製作するCDは絶対にアナログで録音したかったために断念したのです。
ここで、マッスルショールズの音楽的な歴史を簡単にご説明します。時代は、60‘s。モータウンと呼ばれるデトロイトから始まったソール・ミュージックは、あまりにも計算して製作され過ぎていたために、次第にミュージシャンが自由に演奏していたメンフィスのスタックレコードへ流れが変わっていきました。しばらくは、スタック・レコードの強
力なリズムセクション・ブッカーT&MGが大活躍することは、ご存じの通りです。次に、もっと泥臭い音楽を求めた人達は、このマッスルショールズへやってきたのです。ウィルソン・ピケットやアレサ・フランクリンなど数多くの黒人アーチストがここで録音して有名になりました。そのサウンドの影響は、ロックバンドに多大な影響を与えて、1970年代まで続きました。
Duaneは1960代後半までここで働いていました。アレサ・フランクリンはインタビューで、「Duaneのソウルフルなギターはすばらしく、彼がいてくれればいいアルバムができる」と、べたほめに話していたぐらい、彼の目に見えない功績は大きかったのではないかと思います。
何回も道に迷いながら、川のほとりにあるマッスル・ショールズ・サウンド・スタジオに到着しました。もうスタッフが待っていて、さっそくギターとアンプを運び入れることにしました。ここは、大きなスペースのAスタジオと、もう少し狭いBスタジオになっていて、BAR、ビリヤード台、そして卓球台があって、すごくリラックスしたいい雰囲気です。
アンプのセッティングや、借りてきたギターの弦を張り替えたり演奏ができるように準備を始めた時、このレコーディングのプロデューサーを引き受けてくれたジョニー・サンドリンさんが奥さんと入ってきました。
ジョニーさんは、ポールさんと同じくDuaneやグレッグと一緒にアワーグラスを結成していた人です。彼は、アワーグラス解散後も音楽業界で活躍し続けて、ドラマーの仕事以外にもプロデューサーとしても大成功した人です。そんなすごい人なのに、人をリラックスさせる力があり、ものすごく人望が厚い人なので、今回も有名なミュージシャン達が集まってきてくれたのす。
ミキサールームで、今回製作するCDのコンセプトをあらためて説明して、録音する順番を確認しました。彼は、「OK、クニオ。あなたのやりたいように録音しよう。私は、そのサポートと、少しのアイデアを提供するから、こうしたいと思ったり、気に入らないことがあったら遠慮しないで言って欲しい。メンバーが楽しく録音することはもちろんいいことだけれど、クニオが一番楽しくなければ結果的にみんなも満足しないからね。たとえ相手が有名なアーチストでも気
に入らなければやり直させよう。」と、プレッシャーを与えるよりもリラックスさせてくれる気持ちの配慮が言葉の随所に感じられてとても助かりました。
[EPISODE 56]アメリカ・シリーズ第6弾。マッスル・ショールズ・サウンド・スタジオ(2)
今日は、セットアップに大半の時間を費やして、夜に何曲かリハーサルすることなりました。スタジオの備品になっている古いコーラル・シタールを見つけて、ジョニーさんに「これって、もしかしたらDuaneも使っていたのかな?」と聞くと、「多分そう。今回も使ったらいいと思う曲があったから用意させておいたよ。後で試してみて。それから、ベリー・オークリーがくれたPB‘57を持ってきたから、ジェリーに使わせることにしよう」と言われて、信じられない彼の配慮にシビレタなあ~って感じ!
ジェリーの友人からブラック・フェイスのデラックスとバイブロバーブ・アンプのサウンドチェックをすると、2台とも音がすご過ぎる!大好きな古いJBLスピーカーが着いていないのに好きな音がする。特にバイブロバーブは、デラックスのテンパッタ魅力なサウンドと違って、余裕感を感じられて良い。そして、2本のマーチン、ドブロ、ロデオもみんないい!全部持って帰りたい!
そうこうしているうちに、ナッシュビルからドラマーが道に迷いながらやっと着いたと連絡があ
りました。エド・グリーンさんです。
彼は、ドラマーなら誰もが知っている有名なセッションドラマーで、1970年代からボズ・スキャッグス、ジェフ・ベック、ジェイグレイドン等、300以上の有名なアルバムへ参加しています。今回は、ジェリーのブレンダ・リー時代のキーボーディストからの紹介で参加してくれることになったのです。ジョニーさんからもっと有名なドラマーのご紹介がありましたが、エドさんから、「このセッションに呼んでくれて本当に有難う。お金や名声を求めた時もあるけれど、
今はドラムを叩けるだけで幸せだ。今回は、セッションではなく、バンド演奏のようにせいいっぱい叩くから。送ってもらったCDで演奏する曲はもう把握しているよ。」と信じられない言葉が返ってきたので、その有名なドラマーには、もし次回があったらお願いにして全曲エドさんにお願いすることにしました。
ジェリーの心遣いもすばらしいです。そのテキサスに住む有名なドラマーに電話して、「今回は参加してもらえなくなったけれど、次回は是非お願いしたい」とわざわざ謝ってくれたのです。
彼の心遣いも日本人以上です。
以前、ある有名なギター・コレクターと私がトラぶった時、私は絶対悪くなかったので謝る気もなかったのですが、何年かしてこちらへやってきた時にジェリーが絶対に彼のところへ行こうと言うのです。「クニオ。確かにあの時はお前のほうが正しいと思うよ。でも、彼の気持ちもよくわかるし、Say goodbyと言ってしまったら、もう関係がなくなってしまうから、それも寂しいと思う。謝る必要もないからSay Helloだけを言いに行こう。」と嫌がる私を
連れてきました。でも、行って見て、彼が連れてきたかった意味をのみ込めました。私より先輩で偉大なコレクターな彼は、その時に子供のようになってしまったことをずっと後悔していたのがわかりました。私もカッとなったことを大いに反省して、お互いに何もなかったように、笑って「Hello」と挨拶しました。日本人は主張しない!自己主張が足りない!という先入観にとらわれ過ぎて、気づいたら、アメリカ人以上に主張していたことがわかりました。それから、どの世界にも“お互い様”という言葉はあるんだな理解し、私も気をつけることにしました。その時は、ジェリーの配慮に感謝と自己反省の気持ちを込めて、待って行ったお金を全部彼のギターを買うために使ってしまいました。
[EPISODE 56]アメリカ・シリーズ第6弾。マッスル・ショールズ・サウンド・スタジオ(3)
エドさんのドラムは本当に重い!ドンカマを使ってジェリーとリハーサルしている時は楽に弾けた曲も、彼がはいると後ろへものすごく引っ張られる!最初私もジェリーも彼が叩くビートに戸惑いましたが、すぐに慣れてグルーブ感が同じになりました。それでもジェリーは、私の突っ込みぎみに弾くギターとリズムポイントが後ろにあるエドさんのドラムをコントロールすために必死だったようです。
ここで、ギターソロのコツをひとつ伝授。
ギターを弾いていて、リズムは合っているけれど、遅れて感じたり、スピード感がないように感じたことはありませんか?その解決方法のヒントをお教えします。まず、心のタイムをジャストに持っていくのは当たり前ですが、ここ一番に盛り上がるところのギターソロはそれよりも少し突込み気味で弾くとスピード感が出ます。有名なブルース・ロック・ギタリストはみんなそう弾いています。怖がらないでください。そのほうが魅力的なギターになります。多少突っ込み過ぎても大丈夫です。バックのリズム隊のリズムを狂わせれるようになれば、もうあなたはそれに関して一流です。ただし、心のタイムも突っ込むともう戻せなくなり大変なことになりますのでご注意を・・・。
今日は、Thanks anyway,Witch face,What a fool,It’only smileの4曲をリハーサルして終了しました。
これから、たいへんなので、本当に四方山話は数日お休みします。その変わりにこれから来る主なアーチストをお知らせします。
サム・テイラーさん:Z.Z TOPのオフィスに所属していたキーボーディスト
ミッキーさん:パーカッショニスト
※さっきチラッときたけど、知り合いのベーシストのミッキーさんかと思ったぐらい雰囲気も似ていた。
ボニー・ブラムレット:いわずと知れた デラニー&ボニー
ジミー・ジョンソンさん:レイナードがスィート・ホーム・アラバマの曲で彼のことを歌っているぐらい有名なマッスルショールズのギタリスト
つづく。
[EPISODE 57]アメリカ・シリーズ第7弾。マッスル・ショールズ・サウンド・スタジオ2。
サムがやってきた。
Date : 2002/06/04 (Tue)
まだ、時差ぼけがひどく朝6時に目が覚めてしまったので、ちょっとだけ昨日(6月3日)のことを書くことにします。
今日は、サムがダラスから12時間かけてやってきた。お互いの名前はジェリーから聞かせれていたので、1980年初頭から知っていたのですが、会ったのは今回が初めてです。彼は、あらゆる才能を持っていて、キーボーディスト、プロデューサー業、数年前までZZ TOPのパブリシーや著作関係を管理していました。1980年代に製作されたZZ TOPのビデオにも深くかかわっていたそうです。渋谷店に飾ってある彼らのサインは、このサムが送ってくれたので
す。3人で遅い朝食をとりながら、ZZ TOPにまつわる話をあれこれとしました。まず何は先にも、1983年に彼らのサインをいただいたお礼を言いました。それから、今一番気になっているビリー・ギボンズの病気の噂を聞くことにしました。「彼が病気?という噂は知らないなあ。でも、ビリーは結構お茶目で、後の二人と違っていつもみんなから注目されていたいんだ。時には、わざと噂が出るような言動をして、みんながどんな反応しているかを楽しんでいるんだぜ。
スタッフとして働いていた時はハラハラしたよ。でも、愉快だった。彼は人を楽しませることが大好きなんだよ。」と話していました。それから私達のバンドのキーボーディスト鹿島さん(通称オヤジ)のについて、「送ってもらったCDを聴いたけれど、このキーボーディストはニューオリンズにいたのか?いいグルーブを持っているな。俺も負けないように練習してきた」と話していました。また「お前のとこで働いているマネージャーが作っているZZ TOPのカバーバンド、なかなかいいなあ。でももっとカッコーを気にせずに、おとぼけたほうが真のZZTOPカバーバンドになれるよ。」と言っていました。
一緒にスタジオへ行く途中、ZZ TOPを最初にプロデュースした人から電話があり、今ナシュビルにいるので6月4日に遊びに来ると言っていたそうです。
スタジオに着くと、ジョニーさんが昨日のリハーサルした曲をチェックしていました。ジョニーさんに「昨日、スライドギターはレスポールをスタジオにあったマーシャルで弾いたけれど、いつも自分が使っている音とまったく違うのでフェンダーヴァイブロラックスに変えると伝えました。音を出してみて、彼もそのほうが良いと思ったようです。
※昨日寝ぼけていてバイブロラックスのことをバイブロバーブと書いてしまいました。ごめんなさい。ついでですが、この四方山話を夢遊病者のようにボーッとして書いていますので、打ち間違いや不思議な表現があったら、想像して理解してください。よろしくお願いします。
サムがキーボードで入ってくれたので、リハーサルで一曲づつチェックしている時もすばやくなりました。彼は、キングスXなどのプロデュースしているのでこうしたほうがこの曲は良くなるとすぐにわかるようです。でも、メイン・プロデュースしているジョニーさんをたてていて、必要なら「この曲は長いからここをカッとしよう」とか、「この曲のリードはFからではなく頭から弾いたほうがもっと格好よくなる」とポイント、ポイントで的確なアドバイスをしてくれま
す。彼のアドバイスは、作曲者としてまったく気づかなかったです。勉強になります。
6月4日はポール・ホンスビーさんとZZTOPの最初のプロデューサーがやってくるので、このスタジオには4人のプロデューサーに見守られてレコーディングできるわけで、なんとも頼もしい限りです。
毎日のスケジュールは、アラバマスタイルで1時から夜中の11時までなんですが、昨日は全曲をリハーサルするために真夜中の1時になってしまいました。でも、誰一人と嫌な顔をせずに取り組んでくれ、頼もしかく思ったことと、彼らの助けに感謝しました。
泊まっているホリディ・インの女性マネージャーがご主人とリハーサルを見に来て、「このCDを買いたいからアメリカでも売ったほうがいいよ。主人はこの町で楽器屋をやっているけど、こういうCDはアメリカでも次代へ伝えるために必要だと言っています」と作っている最中に注文をいただきました。本当にうれしい限りです。
つづく。
[EPISODE 58]アメリカ・シリーズ第8弾。マッスル・ショールズ・サウンド・スタジオ3
Duaneの友達がいっぱい! T.Z.KINGさん、名曲“ローン・ミー・ア・ダイム”を
Duaneが何のギターで弾いたかわかったよ!
Date : 2002/06/05 (Wed)
今晩は。今、マッスル・ショールズはすごい雷が鳴っています。ちょうど今日のレコーディングが終わって帰ってきたところです。へとへとなんですが、今日、Duaneのことをいっぱい聞けましたが、寝てしまうとすべて忘れてしまいそうなのでがんばって書きます。
サム、ジェリー&私は、遅い朝食をとってから、スタジオへ向かいました。到着すると、ポール・ホーンスビーさん、ジミージョンソンさん、ミッキー・バッキンさんが来ていて、もうジョニーさんと曲の打ち合わせをしていました。この人達は、全員Duaneの旧友なので本当にびっくりしますね。ジョニーさんは、1965年フロリダでミニッツというバンドをやっている時にオールマンジョイと対バンして知り合ったと言っていましたし、ジミーさんとミッキーさんは、ウィルソン・ピケットとボズ・スギャッグスのレコーディングを一緒にやっています。特に、オーティ・スラッシュのマイケル・ブルームフィールドとDuaneが参加したアルバムを制作していたときはすごかったそうです。オーティス・ラッシュの横にDuaneがいて、コンソール室にマイケル・ブルーム・フィールドがいたんです。このアルバムはブルーム・フィールドが大人で、ギターパートの80%以上を若きエースのDuaneに任せていたそうです。このセッション後も、お互いにブルースのテープを交換していたそうです。疑問に思ったのは聞いてみるもんですね。ジミーさんは、Duaneとフィルモアにジョニーウィンター観にいった時、バルコニーで見ていて「ジミー^、俺は来年の今頃はあのステージに立っているから」とか、ウィルソン・ピケットのヘイ・ジュードをやった逸話など、本で読んだことは皆さんは実際に経験しているのです。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。¥。
もうだめ、書きながら寝てしまいました。
力が残っていたら明日起きてから書きます。
おやすみさない。
[EPISODE 58]アメリカ・シリーズ第8弾。マッスル・ショールズ・サウンド・スタジオ3
Duaneの友達がいっぱい! T.Z.KINGさん、名曲“ローン・ミー・ア・ダイム”を
Duaneが何のギターで弾いたかわかったよ!Again! (1)
Date : 2002/06/05 (Wed)
今晩は。今、マッスル・ショールズはすごい雷が鳴っています。ちょうど今日のレコーディングが終わって帰ってきたところです。へとへとなんですが、今日、Duaneのことをいっぱい聞けましたが、寝てしまうとすべて忘れてしまいそうなのでがんばって書きます!
・・・・と、昨夜書きましたが、寝てしまい、やっぱり随分忘れてしまいました。もう一度思い出しながら書きます。
サム、ジェリー&私は、遅い朝食をとってから、スタジオへ向かいました。到着すると、ポール・ホーンスビーさん、ジミー・ジョンソンさん、ミッキー・バッキンさんが来ていて、もうジョニーさんと曲の打ち合わせをしていました。この人達は、全員Duaneの旧友なので本当にびっくりしますね。ジョニーさんは、Duaneとは1965年フロリダでミニッツというバンドをやっている時にオールマン・ジョイと対バンして知り合ったと言っていましたし、ジミーさんとミッキーさんは、有名なウィルソン・ピケットとボズ・スギャッグスなど数々の有名なレコーディングをDuaneと一緒にやっています。その中でも、特に、オーティス・ラッシュのマイケル・ブルームフィールドとDuaneが参加したアルバムを制作していたときはすごかったそうです。オーティスの横にDuaneがいて、コンソール室にマイケル・ブルーム・フィールドがいたんです。一緒には演奏はしなかったようですが、このアルバムはブルーム・フィールドが大人で、ギターパートの大半を若きエースのDuaneに任せていたそうです。マイケル・ブルーム・フィールドは、Duaneのヒーローだったそうで、このセッション後もお互いにブルースのテープを交換したりして交流していたそうです。昔私がブルームフィールドのギターにやられていた時に買ったアルバムで、Duaneも弾いていたので、一緒に録音したかどうかを知りたかったのです。疑問に思ったことは聞いてみるもんですね。
ジミーさんは、Duaneとフィルモアにジョニーウィンターを観にいった時、バルコニーで見ていたDuaneが「ジミー、来年の今頃、俺は絶対にあのステージに立っているからな」と言ったとか、ウィルソン・ピケットのヘイ・ジュードをやった逸話など、Duaneのアンソロジーに書いてあったことを本人たちから直接聞けただけでもこちらへ来くることができて幸せでした。
今日、午後1時から始まって11時30分までレコーディングをしました。でも、皆さんを見ていると、本当にいつ始まって、いつ終わるか皆目見当がつかないほどのんびりしています。しかも、スタジオの建物内全体を暗くしてあるので、時間が経つのがさっぱりわかりません。ものすごくゆっくりなスピードで段取りが運び、2曲録音が終わった時にはもう午後6時になっていました。その後も、彼らは別に急ぐでもなく、淡々と仕事をこなしていますが、必要なところはきちんと時間をかけてやり直します。私は、「なんだ、こちらはこのタイムスケジュールでやるのが普通なんだ。だから、あわててもしょうがないね」と理解して、ジョニーさんに呼ばれるまでジミーさんとDuaneの話に花を咲かせたり、気分転換にそばを流れるテネシー川のダムでいいポイントを探しに行ったりしていました。
そうこうしているうちに、ジョニーさんがゆさゆさと体をゆすりながらやってきて、「おーい、クニオ。時間がないから早くやろう」と急かすのです。えっ?みんな私を待っていたの?ありゃりゃ、私のほうがみんなよりアラバマタイムになっている!こりゃいかん、とあわててスタジオに入りました。
今日は、ジョニーさんがストラト‘63サンバーストを持ってきてくれたので、さっそく弾いてみました。保存状態も良く、結構ど太い音がしてネックも握りやすかったので、“Helpin’ hand”のインストロメンタルの曲で使わせてもらうことにしました。
ミッキーさんは、明日他のレコーディングのために来れないため、パーカッションが必要な曲を今日録音することにしました。“Thanks anyway”、“Helpin‘ hand”、“It’s only your smile”、“At midnight”、そして“Long time no see”の5曲を録音しました。
ミッキーさんは、当初ミュージシャン・ユニオンに登録している関係で、友達価格のギャラでは演奏できないとジョニーさんが言っていましたが、本人が帰り際に「明後日、また来るよ。このセッションはクニオの曲も好きだし、メンバーも久しぶりに楽しいし、もうギャラはいらない。それから、昨日クニオからもらったこのチタンのネックレスがすごくいい。家内は3月前に後ろから追突されて以来まったく痛みが治まらず、寝れなくて苦しい思いをして大変だったけれ
ど、昨日このネックレスをさせてみたら、うそのように朝までぐっすり眠れたと本当に喜んでいたんだ。家内が良く寝れた恩返しもしたいので是非来るよ。それから、俺はチェロキーインディアンの血が流れていて、いつもこのネックレスのお守りをもっているんだ。お礼と入ってはなんだが、是非このネックレスを受け取ってくれ」と、ネイチャーなネックレスをいただきました。
実は、こちらへ来る時に何を皆さんへお土産として持っていいたら良いか迷いました。私は、最近オリンピック選手、イチロー、サッカー選手、そしてジェフロックさん、疑り深いT.Z.KINGに流行っているチタンネックレスを愛用していて、なんだかよくわからないけど効く様な気がするし値段も安いので、先輩の皆さんにはきっと喜ばれるだろうといっぱい持ってきたのです。
このアルバムのジャケット撮影する時に、全員がこのチタンネックレスをしているのには、きっと皆さん笑いますよ。この会社に写真を見せて、このアルバムのスポンサーにでもなっていただきますかね・・・。
[EPISODE 58]アメリカ・シリーズ第8弾。マッスル・ショールズ・サウンド・スタジオ3
Duaneの友達がいっぱい! T.Z.KINGさん、名曲“ローン・ミー・ア・ダイム”を
Duaneが何のギターで弾いたかわかったよ!Again! (2)
Date : 2002/06/05 (Wed)
ジミーさんからも、「今、家内が寝れないで苦しんでいるのでもうひとつ欲しい」と頼まれたので、帰ってからお送りすることにしました。
ジミーさんは、温厚で明るい方で、写真で見るとオッカナイ顔をしていますが、会って見ると気さくな雰囲気でぜんぜん違いました。私は、思わずストンプ谷口君みたいに口が滑って、「写真でみる顔とぜんぜん違いますね」と言ってしまいました。そうしたら、「わっはっは、カメラを向けられるとどうも緊張して怒り顔になってしまうんだ。気にしなくてもいいよ。ところで、3月に発行したフェンダーのインフォーメーションブックに俺が載ったの見たかい?多少ましな
顔で載っているよ。」と話してくれました。彼がレイナード・スキナードのヒット曲“スィート・ホーム・アラバマ”に歌われた意味もわかりますね。ジミーさんがあまりにもいい人なので、マキさんやレオスキさんには悪いけれど、私も次のライブではこの曲を演奏しよう思います。
彼のリズムワークは、Duaneが唖然としたぐらいバックアップに徹していてしかもすご過ぎます。演奏前に「私は、クニオのギターのエコー部分を担当してあげる」と言った意味がわかりました。彼がカットする音は、曲のテンションをかっちり支えてくれるのです。私には彼のテクニックは逆立ちしても一生できません。なにせ彼はカッティングに一生をかけているからです。まったくすごい!の一言。
シタール風に弾いた“Helpin‘ hand”を録音してミキサー室でみんなが集まって聴いている時に、ポールさんが、「ジョニー、60’sを思い出すなあ。この曲はアワーグラスの時に色々あったことがフラッシュバックするよ。」というと、ジョニーさんは「ふふふふっ、」と意味ありげな笑い方をしていました。私も、この曲は自分に影響を与えたビートルズ以降の音楽を演奏したくて作ったので、本家に認められたように思えて妙にうれしかったです。
ジョニーさんも、会うとわかりますが、本当に穏やかで、人にプレッシャーを絶対に与えることがなく、みんなが自分の演奏に納得するまで、じっと待っています。みんながくつろいで彼の後ろでワイワイしていても、助手のクリスとみんなにペースを乱されることなく自分の仕事を遂行していきます。それは、当たり前といえば当たり前かもしれませんが、彼らにとっては、同窓会みたいなレコーディングなので、多少乱れてもしょうがないと思うのですがそれでも乱れません。ポールさんもサムもプロデューサー業をやっているのではしゃぎながらも彼をサポートしているのがわかります。
私は一応このアルバムの本プロデューサーなのですが、3人が色々考えやり終えて、私の方に振り返った時に「イエス!」と言えばよいのですから楽でたまりません。
ここで登場してきたクリスは、ジョニーさんを手伝うためにナッシュビルからやってきました。これがまた岩永とクリソツなんです。あまりにも、そっくりな顔と体格をしているので、思わす「オィッ!」と呼んでしまいそうになります。でかい図体をしているけど結構かわいい青年です。もしかしたらB型・・・?
サムは、ピアノを弾きながら全体を見渡して誰か遅れていないかを的確に指示していきます。ジミーさんが理解できないパートがあるのをすぐに把握して、わかりやすいようにコードラインを伝えていました。
こちらでは、楽譜やコード譜はまったく使わず、通称ナシュビル・ナンバーと呼ばれている数字でコードと小節を管理します。ジェリーの説明では何十年前に考え出された方法だそうです。
スタジオに入ってみて曲とヴォーカルの音域が合わなかった時に、数字で管理していれば、急にキーを変更してもそのままその数字で対応できるからだそうです。もし、楽譜やコード譜だったらすべて書き直しなければならなくなるので、それを避けるために考えられたそうです。まったく合理的だと思うのですが、それが初めてな私はスタジオで飛び交う数字には何がなんだかチンプンカンプンでした。幸い、ジェリーにはコード表を渡してあったので、彼が内容をそれに置き換えてくれるので、他のメンバーが何を確認してきているかやっとわかしました。
ここで、最終的に集まっていただいたメンバーを改めて紹介します。
ギター&ボーカル:私(49歳)
リズムギター:ジミー・ジョンソンさん(59歳)
ベース&ヴォーカル:ジェリー(49歳)
ピアノ:サム・テイラー(49歳)
B−3:ポール・ホーンスビーさん(60歳)
ドラム:エド・グリーン(?)←聞き忘れた!
パーカッション:ミッキー・バッキンさん(58歳)
※ボニー・ブラムレットさんは、オーバーダブの時に来てくれることになっています。
60歳に近い皆さんと一緒に演奏していると、私やジェリー達は本当に子供です。自分も彼ら
みたいな60歳になりたいなと思いました。ジミーさんが「男の50代は体質が変わるので結構
たいへんだから、体に気をつけなさい。」と私たち40代組に諭すようにアドバイスをしてくれ
ました。
帰りの車中で、ジェリーがコークの缶を指で叩きながら運転していたので、
私:「ジェリー、ストップ!サウンド ライク ア クリックだ!やめてくれ~っ!一日中ヘッ
ドフォーンで聞いていたドンカマと同じ音じゃないか。」
ジェリー:「オオッ!俺もそう思いながら叩いていた!悪い、悪い。」
と、日米のお気楽2二人組を乗せた車は、マッスル・ショールズの街を凄い雷の中、ホテルへ走
って行きました。
つづく。
あっ、そうそうT.Z.KINGさん、Duaneがボズ・スキャッグスと演奏した“ローン・ミー・ア・ダイム”をなんのギターで弾いたか話すのを忘れていました。ジミーさんとミッキーさんはその時のレコーディングをDuaneとベリー・オークレイとともに参加していたそうです。マッスルショールズではホーン・セクション以外を録音したそうです。ホーンセクションは、たぶんニューヨークかフロリダでオーバーダブされたのではないかと言っていました。
さて、Duaneが使ったギターですが・・・・・・、それはSt‘66サンバーストでした。サンバースト・レスポールでも、テレでも、P−90の搭載されたLPでもありませんでした。この30年間の私にとっての謎がやっと解けました。では、なぜ?あんな太い音が出たかというと・・・・、それには、彼独特のトリックがあったのです。それは、想像してください。いつかそのセットでこの曲を弾いて見せます。お楽しみに・・・。
他のDuaneのギターについて。
ジョニーさん談。
「彼は、マッスル・ショールズ時代に黒色のローズのストラトを持っていたんだ。ある時、あれがが欲しくて、あれと交換したことがあったんだ。でも、交換した奴と仲良くなって一緒にあれをやってしまい、結局はギターも手放さずに済んだんだ。面白いだろ!彼が例のタバコ・サンバーストのレスポールを手に入れた時は良く覚えているよ。オールマンの仕事でニューヨークへ行って帰ってきたら、凄いギターを手に入れたとぶら下げてきたんだ。値段を聞いてびっくり。当時としては信じられなく高かったので、よくそんな高いギターを買えたなあとみんな驚いたんだ。今、娘が持っているから、もし売るようならクニオを推薦するよ。」と話してくれました。
※いよいよ仲つきでナンシーの渋谷店を手放す日は近くなったようだ?
そのほか、今日スタジオへ来てくれた人。
1)カウボーイ・レイさん:1930年代から活躍したカントリー歌手で、今81歳。ジミー・
ジョンソンさんのお父さんです。
2)スティーブさん:ZZTOPビリーギボンズの16歳から旧友で、10代から初期のZZT
OPを手伝っていたそうです。
[EPISODE 59]アメリカ・シリーズ第9弾。マッスル・ショールズ・サウンド・スタジオ4
11曲のベーシック録音完了。
Date : 2002/06/07 (Fri)
6月6日朝です。やっと時差ぼけがとれてきました。こちらへ来てから睡眠時間が5時間なく、最初はジェリーの車で移動中に昼寝できましたが、マッスルショールズへ来てからまったく昼寝をできなかったので毎日終わる頃はもうろうとしていました。
昨日も、1時からレコーディングということですが、実際に始まったのは3時30分です。一昨日はウィリッツァー・ピアノの音が出なく、昨日はハモンドB−3につなぐレスリー・スピーカーが調子悪く、なかなか始まりませんでした。2台あるレスリーのうち1台は上のスピーカーが動かなく、もうひとつは下のスピーカーが動かないのです。結局夕方にリペアーマンが来て直してくれることになり、まずB−3がいらない曲から録音することにしました。この時は、本当に6曲も録音できるのかな?と私とジェリーは心配しました。
他のメンバーは、音が出ないからしょうがないと雑談をしています。ジミーさんはますますファンキーになってきてます。音に反応する花のおもちゃみたいに、いつもブレイクダンスのようなことしています。その滑稽さに、私だけでなくメンバーもあきれていましたが、最後は笑いが出てしょうがなかったです。昔ジェリーとナシュビルからメンフィスへ行ったときの事を歌った曲“ELVIS A GO GO”をまさに録音する時、ジミーさんはなにか思い出したように、
急にギターおいて私のところへ来るのです。他のメンバーやコンソールルームでスタンバッテいたジョニーさんは何事があったのか?とキューを出すのを待ちました。「うっふっふっ、エルビスとの話を聞きたくないか?聞きたいだろ。彼は1977年にマッスルショールズで録音したくて段取りをしていたんだ。もうスタジオもリザーブされて演奏する曲も連絡があったんだけれど、次の日に亡くなってしまったんだ。どうだこういう話を聞くとびっくりするだろ。」と、ゆ
うゆうと戻ってきました。びっくりするのは、録音前の緊張感いっぱいな時によくそんなことをのんきに話にくるなということです。一同唖然。
今日のエドは気合が入っていて、みんながのんびりしているのを一人で「レッツ・ゴー、録音しようぜ。」とプッシュしてくれました。
今日の6曲は、昨日録音した5曲よりも複雑ではなく、例えば「このコーラスを2回繰り返したら、Bメロディーへいく」と口頭で構成を伝えれば曲を知らなくてもできてしまうんですが、彼らはすべて数字に置き換えて考えるので結構曲の打ち合わせに時間がかかりました。彼らが曲をチェックしているのを待っていて、時として数字で考えるほうがかえって難しくしているように思えます。ただ、日本とアメリカでは言葉の意味が違っていて、私達が「このAメロディーを
2コーラス演奏」という場合のコーラスはバースと言うのが本当で、コーラスの意味は本当にコーラスを入れるところを言うのです。普段なにげなく日本で使っている英語が、こちらとは違う意味に違っていたため、最初話が食い違ってお互いに意味を理解できなく苦労しました。
昨日もすごい雷でたびたび中断しましたが、午後11時30分にやっと録音が完了しました。
ポールさんはメイコンへ、エドはナッシュビルへ帰っていきました。サムはダラスへ帰るのをやめて、最後まで録音に付き合ってくれることになりました。
録音中も、ジミーさんと共にマッスル・ショールズ・リズム・セクションの一人デビィット・フッドさんなどいっぱい有名な人が見に来てくれましたが、その人達が誰だったかあとでジェリーに聞いて報告します。
時間になったのでここで終わりです。今日はたくさん寝れたので、四方山話をたくさん書けなかったです。
つづく。
番外編
Date : 2002/06/07 (Fri)
A型のT.Z.Kingさんから予想通りのメールが来たので掲載します。
岸田さん
夢のような毎日ですね。
Duaneが岸田さんになっただけじゃないですか。
でもね、前回の四方山話のタイトルでおおっと思わせといて寝てしまい、おっ又来たと思ったら66ストラトといういかにもありそうな答えで挙句の果てにトリックがあるけど自分で考えろ?
よくそう言うことが言えますよね。答えは小さいアンプ?でもそれじゃライブは出来ないですよね。アンプの置き方?部屋のコ-ナ-に向けて置いたとかバッフルで前を塞ぐ?
マッスルショ-ルズでは66ストラトがメインだったのでしょうか?ヘイジュ-ドも66ストラト?なんかテレキャスっぽくありません?6スラブのストラトとかはいつ使ってたの?Going Down Slowで使ったのは?BBking メドレ-は? 335は使ったんでしょうか?
335はどんなの使っていたの。60年代中頃のビグスビ-だけ?アンソロジ-の曲と使用ギタ-対照一覧表が出きるくらい、みんな聞いといて見下さい!!
T.Z. King
[EPISODE 60]アメリカ・シリーズ第10弾。マッスル・ショールズ・サウンド・スタジオ5
イギリスからLPstd‘59が届いた。
Date : 2002/06/08 (Sat)
6月6日、予定通りイギリスからLPstd‘59が届いたので安心!そして大興奮!!このことは皆さんに話していませんでしたが、この録音のためにレスポールを手に入れたのです。
このギターは、ディッキーさんが1970年代初頭に使っていたギターで、彼が手に入れた時はもうリフィニッシュされていたそうです。1980年頃に発売されたプレイヤー誌別冊ギター1の彼のページに掲載されたギターそのものです。色んなアクシデントがあってヴィンテージの価値としては落ちるのですが、名ギタリストが選んだギターなのでものすごい音がします。数年前にクリスティー・オークションで競り落とされたギターだけあって通常価格の3倍以上してリセ
ール対象にはなりませんが、偶然にも4月の終わりにロンドンで売り出されたのをもう一人のパートナーが私とこのレコーディングのために手に入れてくれたのです。このギターは、ロンドン→パリ→ドイツを経由してマッスルショールズへやってきたのです。いくらアンビルケースに入っているとはいえど、運送会社が保障してくれる限度額をはるかに超え
ているので運送途中の盗難や破損が心配でした。本当はレコーディング前にデンバーで受け取ってくるはずだったのですが、レコーディング予定日が一週間早まって私のほうが先にアメリカへ来てしまったのです。
さっそく、バイブロラックスにつないで試弾きしました。音がすご過ぎる!サンバースト・レスポールにしかない独特な音色です。ネックの感じも自分のLPstd‘59に似ているので弾きやすいです。ちょっとブラスナットの溝が深くなりすぎてちょっとバジィは音が混ざりますが、録音には影響ありません。こちらではサウンド・チェックする時間がなく、あらかじめフランスでレコーディングしている有名なバンドのギターテクにお願いしてあったので安心していました。
そのギターテクがチェックしている時に、そのバンドのギタリストRさんがやってきて、このギターを弾きながら、「ディッキーとは20年以上会っていないなあ。」と言っていたそうです。今そのバンドをサポートしているキーボーディストはかってのディキーさんとのバンド仲間で、「このギター覚えているよ。1970年代初頭にディッキーがメインギターで使っていたやつだ。このフランスで見れるなんて不思議だなあ・・・。えっ、なに?これからマッスル・ショール
ズへ送るんだって?そこは今、俺が住んでいる街のそばじゃないか。なんだって?ジョニーやポールがレコーディングに参加するんだって?」と驚きまくっていたそうです。
私がはしゃぎながら弾いている音を、コンソール室で聴いていたジョニーさん夫妻がスタジオに入ってきました。「クニオ、ゴールド・トップもすごくいい音をしていたが、このギターはトレブリーで迫力があるなあ・・・。あれっ?このギターを昔見たことがある気がするなあ?あっ、そうだ。ディッキーが使っていたやつだ。」とここでもびっくりしていました。ジョニーさんは、「実は、このレコーディングにオールマンのメンバーを呼ぼうと思ったんだ。
でも、オールマンはツアーに出ていて無理だったし、ディッキーが先週ちょうどこの近くのモンゴメリーでライブをやっていたので、何回も連絡を取っていたんだけどだめだった。彼らが来たらクニオの音楽とギタープレイに喜んだのになあ。」と、彼の話に今度はこちらが百倍びっくりさせられました。もし、彼らが来ていたら、歌はグレッグ、ギターはディッキーさん、私はコンソール室でジョニーとその様子を見ていますね、きっと。それだけで幸せです。
ここまで、のんびりムードのレコーディングだったのですが、「ジョニー、すぐにギターパートを録音したい。I‘m ready!」というと、「I know!」とコンソール室へ戻っていきました。さっそく、ゴールドトップで仮録音しているパートをサンバーストで録音しなおし
ました。ほとんどワンテイクで決めたので、さすがにジョニーもびっくりしていました。サムに“トリフィック”という言葉をを日本語でなんていうか聞かれたので、「サイコー」と言うと、何かが終わる度に誰かまわずみんな「サイコー」と連発していました。最後には、ジョニーさんまでは「アイコ、ウー」と言っていたので驚きです。私は、うれしくなって、その度にdon‘t touch mustache!と言いました。
[ここで適材適所の話]
トレブリーなサンバーストの音色は曲を楽しく明るくします。しかし、ベター・デイズのようなリラックスしたやさしい曲にはゴールドトップのアコースティックな音のほうが合いました。また、昨年の急激な円安でうんざりしていた時に作ったWitch faceという曲にも、ゴールドトップの歪んだ音でスライドを弾いたほうがかったるく聞こえてよかったです。
昨日(6月6日)も、午前2時30分。長い一日が終えてホテルへ帰ってきました。
皆さん、オーバーワークにも関わらず遅くなっても私が満足するまで付き合ってくれます。本当に感謝しています。ジェリーにこちらでは普通なのかと聞くと、「そんなことはないよ。これはもう普通じゃないよ。夜遅くまで毎日13時間も仕事しているんだよ!みんながクニオと仕事することをすごく楽しんでいるから平気なわけで、普通ならtime is over、go homeと言って契約の8時間を越えたら帰ってしまうよ。昨日帰って行ったポールやエドはじめ
誰も嫌な顔をしていないだろ。みんな手伝いたいんだよ。前にも言ったけど、クニオが満足する顔をみんなが見たいんだ。」と説明してくれました。
考えてみれば、皆さん私よりもずっと年上か同年代なわけで、本当に頭が下がります。サムも今日ワンパートを録音しただけなのに、ずっと見守ってくれていました。彼は私がどうしたいかす
ぐわかるようで、すぐに察してジョニーや他のメンバーに指示を出してくれます。本当に助かります。
ジョニーの奥さんアンも度々スタジオへやってきてくれて、みんなのために夕飯を作ってくれま
す。昨日はポールさんの奥さんも一緒にサザン・フードを作ってくれました。サムに言わせると、1970年代後半からみんなビジネスライクになってしまい、こんなアットホームな録音したのは本当に稀なことだとびっくりしていました。
アンさんは、本当に穏やかな話し方をするベリー・サザンな女性です。
昨日、私が一人で休憩していたときに、アンがやってきて、「主人は、本当にあなたとあなたの音楽そしてギターが好きになったみたい。主人は今までに色んなギタリストを聴いてきたけれど、フレーズこそ違ってもこんなにDuaneを感じたことはないとも言っていたわ。今まで、彼がDuaneを感じるのはDuaneの娘さんと会っている時だけなので、本当に不思議だそうよ。だから、昨日電話してきて、あなたに昔Duaneからもらったマウンテン・ジャムのカセット録音テープを探してコピーしてやりたいと言っていたわ。」とすばらしく感激するお話いただき、もうそのスイートさにすべての筋肉が緩んでしまいました。
明日、ボニー・ブラムレットさんがやってくるので、遅くなっても歌入れだけはやっておこうと、ジョニーと一緒に気合を入れてくれます。
この歌は私にとって一番難関なことで、ぜんぜん歌には自信がないと始める前にみんなに迷惑をかけることを謝り、デジタル処理で音程調整するわけではないので、せめてヘタウマに感じるように唄いたいとみんなに話しました。
ジェリーが横で付っきりになって歌い方の指導をしてくれます。それでも唄いきれないセンテンスのところはみんなが考えてくれて歌詞を変えることにしました。何とか数曲を録音しを得てスタジオを出ると、ジョニーさんは「なんかクニオの声はミステリアスな感じがするなあ。聞いていて心が和むよ。あまりアメリカにはいないタイプだな。でも個性があって良いよ。」サムは「クニオのささやくように唄う歌い方はマーク・ノッポラーに似ててすごく好きだよ。」、クリスは「ドミノスの頃のクラプトンに似ている」とおだててくれました。ジェリーも「絶対にシャウトするな。語りかけるように唄ったほうが味があっていいよ。」等、みんな悪いとこを指摘するよりも良いところだけを見てくれるので本当に助かります。今回ギタリストのゲストを呼ぶよりもバックアップしてくれるヴォーカリストを優先したのは、これが理由でした。
またまた皆さんに感謝する一日が始まります。
続く。
[EPISODE 61]アメリカ・シリーズ第11弾。マッスル・ショールズ・サウンド・スタジオ6
COWBOYがやってきた
Date : 2002/06/08 (Sat)
今日も今日とて、サム、ジェリー&私の3人は、おととい見つけた中国風+日本風+韓国風のバッフェ(セルフ・サービス)へ遅い朝食を食べに行きました。寿司は食べる気にはならないですが、中国料理は本当にうまい!です。
実は、ここへ来る数ヶ月前からお医者さんに、一日1650キロカロリーの摂取量にしてウエィト・コントロールと成人病の予防をしなさいと言われていました。努力して約2ヶ月間で4kg体重を落として、ジーンズのサイズももう少しで2インチ小さくなるところでした。でも、こちらへ来てから、ジョニーさんの奥さんが作ってくれるサザン・フーズとデザートがおいし過ぎてもうセイブできなくなりました。また体重調整は日本へ帰ってからやりなおすことにして食べ
てています。昨夜はブラウニーまで食べてしまいました。ちょっと、too muchかな?
サムが食事中に時々変な言葉を使うので、「なにそれ?どういうふう(意味)?」と聞くと、「それは中国語のあいさつ、これは韓国語・・・」と色々違った国の言葉を教えてくれるのです。彼は、「テキサスの男が、日本人に中国語や韓国語を教えるって不思議だな。しかもその場所がマッスルショールズだなんて。」と笑っていました。
スタジオへ向かう途中。今日は本格的な歌入れなのでガソリンスタンドでのど飴を買うことにしました。こちらでは、1980年代後期からコンビニエンス・ストアとガソリンスタンドが合体する形態がすこしづつ多くなり、今は郊外ではほとんど当たり前になっています。品数もずっと増えています。ジェリーがブラックバスの絵が着いたナンバー・プレイトを見つけてきて見せるので買うことにしました。
レジの女性に、「日本からバス釣りに来たのか?」と聞かれて、「ここはテネシーリバーはじめ、いっぱいいいポイントがあってバス釣りもやりたくてしょうがないけれど、今回はレコーディングに来たんで、まだやっていない」と話しました。すると、「先週、主人のタックル(つり道具)を借りてお母さんとバス釣りへ行ったんだけれど、その時にタックルを全部盗まれてしまったのよ。家へ帰って主人に謝ったら、大切なコレクションもいっぱい入っていたらしく、もう
すごい剣幕で、もう離婚だ!離婚だ!出ていけって!と家を追い出されてしまったのよ。しょうがないから、彼の怒りが収まるまで母の家に住んでいる。」と話していました。私は、さすがバス釣りの本場だけあるなあ、価値感が違いすぎる!とストロングな話を感心しました。ジェリーは「多分、あの人のご主人は、仮に奥さんが浮気しても全然気にしないけれど、タックルは命の次に大切だったよ。きっと」と笑っていました。
スタジオへ着くと、テネシーのナンバープレートがついた車がまだ来ていません。ボニーさんはまだかな?と思って入っていったら、ジョニーさんが「今日、全部歌入れを済ませてから明日ボニーに来てもらう事にした。そのほうが段取りがいいからね。それから、クニオのために歌の先生を頼んでおいた。彼は昔からの仲間で唄い方をわかりやすく教えてくれるよ。ハーモニーもやってくれるとも言っていた。あなたの声には、本当にマーク・ノッポラーのようなミステリア
スな空気がある。このアルバム製作は、ここ数十年の中で一番楽しいし、やりがいのある。クニオはその気はないようだけれど、できればこちらのレコード会社とも販売契約しよう。この間スーツを着た二人連れが来ただろ。彼らはあるレコード会社の人間で、このアルバムに興味があってやってきたんだ。そのためにはまずアメリカ人並みの発音はいいから、とにかくアメリカ人が聞いて意味を聞き取れるまでやろう。」と、そんなひっくりかえるような話をされて、どう反応すれば良いかわかりませんでした。
「あっ、今スタジオへ入ってきた奴がクニオの歌の先生だ。」と言われて後ろを振り向くと・・・、「ハロー、俺はスコット・ボイヤーというんだ。よろしく。」と、気さくなおじさんが立っていました。「えっえっえ・・・・!スコットさんって・・・・、あの・・・・・、Cowboyのスコットさんですか?もしかしてっ!!!!!!!!!(ダイザエモン風に)」とびっくりして聞くと、「Yes、 I am」と言いながら彼のほうが私の反応にびっくりしていました。昨日のレコーディング中にちらっと見かけた人だったのです。その時は自分が忙しくて話をする機会がなかったのですが、私達の録音を聞いていて「なにか手伝いたい」と言ってくれたそうです。本当にうれしい限りです。歌い方を伝授するって言われても、私の知っているスコットさんはギタリストで、グレッグの名盤LAID BACKや彼のオンツアーでギターを弾いている人とのイメージです。
この人も超プロ。歌入れを始めた時、随所に的確なアドバイスをいただきました。私に一曲づつどんなイメージで作ったのかを聞いて、言葉の言いまわしも歌いまわしも考えてくれました。It‘s youという曲には、彼のあの名曲からHe can find my mindという一節を提供してくれたり、今は言えませんがCDで聴くとわかるアイデイアもたくさん提供してくれました。お楽しみに・・・。
あと歌入れが2曲になった時、夕食をとることにしました。先に食事を終えた私は、食堂にDー28を持ってきて彼の名曲Please with meを弾きました。するとスコットさんびっくりして、しばし私が弾いているのを聞いていました。「おお、この曲はな、1970年頃ここの近くの安モーテルで作ったんだ。Duaneのアンソロジーに別テイクがはいっているだろ。あれは、スタジオ内に俺とDuaneがいて、コンソール室からジョニーがキューを出すタイミングを計っているときに、冗談を言い合ったんだ。」と話してくれました。そして、このDuaneのスライド・パートは弾けるか?と聞かれたので、「いや、今までにトライしたことは一度もありません。だって、このDuaneのスライド・プレイは彼のベストで、神に近づくような気がして怖くて、聴くだけにしています。僕の周りには、無謀にもDuaneのパートを挑戦する奴がいましたが、誰もが玉砕してしまっています。
当たり前だと思います。彼のフレーズをカンコピしたって、雰囲気は出ませんよ」と答えました。(だんだん表現がアメリカンになってきた!)
続いてグレッグとの関係を聞くと、「グレッグとは、1973年から1975年まで彼のソロ・ツアーに参加した。の後も一緒には演奏しなかったが良い関係はつづいている。数年前にも彼からソウル系の誰かのアルバムに参加するので手伝ってくれと電話が来たな。でも、録音場所が遠かったので断ったよ。」と話してくれました。
ジミーさんが友達を二人連れて遊びにきてくれました。相変わらずのファンキーさで、私やみんなを和ませてくれます。たぶん一緒に来た友人二人は名のあるミュージシャンだと思いますが、私は知りませんでした。あとで、ジェリーに聞いて見ます。
スコットさんのおかげで、歌入れが予定より早く済んだので、仮録してあるギター・パートを弾くことにしました。スコットさんは、また明日来てくれてボニーさんとハモリのパートを録音してくれると帰っていきました。
まず、It‘s youの最後のストラトで弾いたスライド・ソロをレスポールで録音しなおし、次にThanks anywayのリードパートの音入れをやりました。最後にWhat a foolというブルース・バラードのオブリガードをレスポールでスライド・プレイして今日の一日は終了です。
弾き終えてコンソール室へ戻ってきたら、ジョニーさんがえらく感激していてくれて、「Oh、man!クニオがスライドを弾いているのをこちらで聴いていて、クニオとDuaneがダブって見えたよ。今までにたくさん色んなギタリストがスライドを弾くのをコンソール室から見てきたが、Duaneと同じようなパッションを感じたのは初めてだ!本当にこんな音聴いたことないよ!有難う」といつも静かなジョニーさんが珍しく興奮して、みんなにはばらずに褒めてくれました。周りのみんなも「We agree!」と拍手してくれて、どう反応すればよいかわらなくなりました。
私はちょっと照れくささを隠すために、「実をいうと、私はシャーマンなんです。今弾いたのは私ではなく、私の使ってDuaneが弾いたのです。これはトップ・シークレットなので、絶対に他言しないこと。」とシリアスな顔をして言いました。みんな大笑いです。
気づいたら、また12時をはるかに回っていたので、また明日にしようと帰りました。
もう、おかげさまで99%の録音が終わりました。私も難関だった歌入れも終わったので、明日(今日)はじっくり皆さんが何をするか見ることにします。
つづく。
[EPISODE 62]アメリカ・シリーズ第12弾。マッスル・ショールズ・サウンド・スタジオ7
ボニー・ブラムレットさん登場。そして、デレク&ザ・ドミノスのメンバーがやってきた!
Date : 2002/06/09 (Sun)
今、真夜中の2時20分になります。何とか、予定通りレコーディングが終わりました。
だめだ~ねむい!また明日書きます。
つづく。
[EPISODE 62]アメリカ・シリーズ第12弾。マッスル・ショールズ・サウンド・スタジオ7
ボニー・ブラムレットさん登場。そして、デレク&ザ・ドミノスの元メンバーがやってきた!
Date : 2002/06/10 (Mon)
今日も今日とて、ジェリー、サム&私の3人は遅い朝食をとりながら、色んな話をしました。サムは、Z.Z.TOPの仕事を手伝ったり、キングスXのプロデューサーをしていたこともあって、こちらの業界のことを色々教えてくれます。彼は、色んなアイディアも持っていて、例えば、もしこのCDをこちらで売るなら、シカゴにある知り合いのブルース・レーベルがすぐに契約に来るとか、ヨーロッパならブルース・ファンの多いスウェーデンがいいとか、色んなアイデ
ィアを提供してくれます。それからもっと確実に売れるとっておきな方法があると、耳打ちしてくれました。私は、さっぱりノー・アイディアなので、まずジェリーとサム、そしてこのプロジェクトに参加してくれたミュージシャン達の人がハッピーになれるんなら嬉しいと、アメリカ・サイドのことは全部お任せすると話しました。
スタジオに着いて、ジョニーさんとオーバーダブする曲順の確認をしていました。しばらくすると、通路がにぎやかになってきました。ボニー・ブラムレットさんがやってきたのです。「あなたがクニオさんね。私をこのレコーディングに参加させてくれて有難う。今日は気合を入れてきたから何でも言ってね。」と、まずは友好的に関係が始まってほっとしました。なぜなら、彼女だけが当初このレコーディングに非積極的だったからです。
4月、ジョニーさんとジェリーが、私が送ったデモCDを聴きながらこのレコーディングへ参加してもらうメンバーをリストアップしていて、女性ボーカルが必要だということでボニーさんを呼ぶ事にしたそうです。さっそく、ジェリーがボニーさんに連絡すると、「何で私が必要なの?女性ボーカルは他にいっぱいいるでしょ。私に何をして欲しいの?何で知らない人のためにマッスル・ショールズへいかなきゃならないの?私はお金のためなんかに歌わないわ。」と、立て板に水を打つように言われたそうです。ジェリーはヒェ~っ!と圧倒されながらも、ジョニーさんから紹介されたことを話しました。でも、話しは少しも進展せずにどうにもならなくなり、あきらめて電話を切ろうとしたら、あることから状況が好転したそうです。その時の会話です。
ボニーさん(以下B):「あなたのいいたいことはわかったけど、ところであなたは誰?」
ジェリー(以下J):「この前までブレンダ・リー・バンドのベーシストをやっていて、今はベースを弾く以外に学校の先生とギターの先生をやっています。」
B:「えっ、ギターの先生?私、今ギターを弾きたくてしょうがないの。でも、誰も教えてくる人がいないのよ。」「いい考えがあるわ。あなたが私にギターを教えてくれるんだったら、このレコーディングに参加することにするわ。」
J:「はっ? Say Again please」
B:「だから、トレードしようと言っているの。」
と、ボニーさんは急に友好的な態度になり、この仕事を引き受けてくれたそうです。ジェリーでさえ、今の時代では信じられない彼女の考え方にびっくりしたそうです。「クニオ、もし、彼女を口説く時はお金や宝石はなんかいらないよ。それよりも綺麗な花をプレゼントすればOKだよ。そんな60‘sな女性を久しぶりに見たな。」と言っていました。ジェリーが次に彼女へ電話した時、ジョニーさんから電話が入っていたこともあって、前回とぜんぜん違う信じられなく友好的な応対だったそうです。でも、考えてみれば、彼女がとった態度は当たり前ですね。ぜんぜん知らない人が電話してきて、突然仕事の要請をされれば、まず状況を把握したくなります。
ボニーさんとしばらく談笑していると、彼女と一緒に入ってきたサングラスをかけた小柄な男性が、「ボニー、今から行くところがあるから帰る」というのです。あれっ、どこかで聞いた声だな?と思っていたら、ボニーさんが「クニオ、紹介するわ。ボビー・ウィットロックよ」。ヒェ~ッ!「よ、よ、よろしく。」と思わず声が詰まってしまいました。
彼は、ロック・ファンなら誰でも知っているキーボーディスト、ボーカリストそして作曲者です。「今、クニオの演奏を聴いていたがなかなかいいな。唄い方がクラプトンに似る。ロックン・ロール!」と、写真から来る静かなイメージとかなり違って、かなりハイテンションな人でした。独特のアフロ・ヘアーみたいなヘアースタイルではなく、髪をクラプトンみたいに短くしていた上に、サングラスをかけていたので全然わかりませんでした。
私は、あなたがクラプトンと一緒にやっていたデレク&ザ・ドミノスがいかに好きな事と、あなたのキーボードが大好きで同じタイプのキーボーディストを探していることを話しました。それから、去年彼が出したベルボトム・ブルースが入っているソロアルバムも大好きだと話しました。「おお、そうかい。そりゃ嬉しいね。じゃあ、今度俺と一緒にやろう。」と気軽に言うのです。私は、もうバッタリ!!!! 彼もそうですが、みんなすごい人達なのに全然気取らなく
て、グレッグやディッキーさんもそうだったのですが、同等に話してくれるのです。もし、私が若かったら、大変な勘違いをしてしまいそうです。彼らは、軽い気持ちで私に小石を投げたつもりかもしれませんが、受け取る私には地球が落ちてきたように重いです。
ボビーさんは、このレコーディングに仲間達が集まっているのを聞きつけて、話を聞いたら面白そうだったのでやってきたそうです。まるで、魚を釣ってしばらくすると、いつもまにかそばにいる仲みたいですね。ボビーさんは、ジョニーさんに「俺も参加できないか?」と聞いたそうですが、二人もキーボーディストがいるしできないと断ったそうです。それを聞いていたサムが、「俺のパートを差し替えても良いよ」と言ったけど、ジョニーさんは顔を横にふったそうです。
この状況では私がジョニーさんでもそうしたと思います。あと6時間しかいない中で、バックコーラスの録音と、まだ、トータルで全曲をチェックしなければならない仕事が残っていたのです。彼が参加できなかったのは残念ですが、一緒に写真をとってサインをもらいました。興奮していて彼がどう書いたか確認しませんでしたが、後で見ると、“ボビー・ウィットロック デレク&ザ・ドミノス2002”と書いてありました。嬉しすぎる!
スコットさんがボニーさんに一曲づつ、コーラスの部分を教えて一緒に録音しました。彼女もすご過ぎる!(当たり前か)。コーラスのつけ方を色々やってみせます。すごい、デラニー&ボニーをイメージした曲に本人がコーラスをつけてくれている!もうたまりません。彼女とスコットさんのすばらしいコーラスにただボーッと聞き惚れていました。ジョニーさんが「クニオ、どのコーラスのつけ方が良い?」と聞くので、「えーっ、もう全部いいよ。どれもよ過ぎて僕には
判断できないよ。ジョニーに任せるよ」と、すご過ぎてそう言わざるをえなかったです。彼女の声は今も健在で、パワフルでキュートな声はたまりません。
彼女は、どんどん乗って来て、この曲もあの曲も一緒に唄いたいと、とうとう6曲も付き合ってくれました。休憩している時、彼女が「一緒に唄っていて感じたんだけれど、クニオの声はちょっとジミに似ているわね。」と言うのです。「ジミって?」と聞き返すと、「なに言っているの。ジミ・ヘンドリクスのことよ。彼とよく遊んで唄ったけれど、トーンが似ていると感じたのよ。」と言われました。 私は、またまたバッタリ。
ジェリーが「クニオ。このCDはまるでクニオ&ボニーだね。すごくなったね。」と言ってくれて、私は感激して声にならず、ウンウンとうなづくしかありませんでした。ボニーさんもジェリーの言葉を聞いていて「そうだ、いいアイディアがある。そのユニットでツアーに出よう。楽しそう!」と、彼女もまたまた地球を投げてくるのです。助けてくれって感じ。
今日は、ここまでです。今からスタジオへ行って、機材の片付けとジョニーさんとマスターリングの打ち合わせにいきます。サムも今日中にナッシュビルへ行かなければならないと言っていたので、食事をして別れる事にします。
ボニーさんにクラプトンのことやDuaneのことは聞いてありますので、次回をお楽しみに。
つづく。
[EPISODE 63]アメリカ・シリーズ第13弾。マッスル・ショールズ・サウンド・スタジオ8
ボニー・ブラムレットさん
Date : 2002/06/12 (Wed)
夕食の時のこと。
ボニーさんに、デビューの事、デラニーさんとの事、Duane、クラプトン、そしてジャニスのことを聞くことができました。
B:私は、セントルイスに住んでいて、14歳の時にデビューしたの。ブレンダ・リーと同じように未成年だったのでアルコールがある場所では歌えなかったけど、クラブのオーナーが私が歌えるようにその日だけノン・アルコールにしてくれたりしたの。私が黒人のような歌い方をするのは、その時近くにアルバート・キングが住んでいて、彼らからゴスペルやブルースを聞いて歌い方を習ったのよ。アルバートには本当に可愛がってもらったわ。
デラニーと初めて会った時、彼の態度はものすごくごう慢で、嫌な感じだったの。でも、色々話しているうちに、まず彼が私を気に入ったようで、次の日から非常にいい子ちゃんに変わったの。だからそのうちに自然に付き合うようになったわね。
私:数年前にデラニーさんからDuaneのレスポールを譲ってもらったんですけど、このポスターのギターです。ついこの間まで大変な病気をされていたようですね。
と、レスポール・ジュニアのポスターを見せました。
B:このギターはよく覚えているわ。デラニーやDuaneだけじゃなく、クラプトンもよく弾いていたのよ。あなたのホームページで写真を見て知っていたわ。
デラニーは、まだ完全に病気から立ち直っていないわ。今の奥さんはどうしてか知らないけど全然ケアしないので、私がよくロスへ彼の看病に行っているの。彼とはもう昔のわだかまりはないわ。
さっき録音したブルースであなたが弾いているギターは、本当に黒人が弾いているみたいな雰囲気でよかったわ。きっと、アルバートが好きでしょ。マイケル・ブルームフィールドもアルバートが大好きで彼のコンサートへよく一緒に行ったわ。マイケルのギターも本当にすごかったわね。彼やDuaneはアルバートのギターにとりこになっていたから、結構二人のギターフレーズは良く似ているでしょ。二人ともアルバートの“ファウーン”という叫ぶようなフレーズをみんな練習していたわ。
私:Duaneのことを聞きたいんですけど。
B:あの子達(Duaneとグレッグ)は、子供時から知っているわ。オールマン・ジョイでよくセントルイスに来て演奏してたのを観ていたもの。ジョニーやポールとアワーグラスを結成した時の演奏も良く観にいったわ。あの子はその時から飛びぬけた才能を持っていて、ロスから帰ってきたらすごくスライドギターがうまくなっていてびっくりしたぐらいよ。デラニーとDuaneは本当に仲良くていつも一緒だったわ。それからよく私達のレコードで弾いてもらったの。
これからという時に亡くなってしまって残念だったわ。
話は変わるけど、私は2人の娘がいるの。一人の娘がちょうどデラニー&ボニーをやっていた時と同じ年の23歳になって、その頃に私達が何をしていたかすごく知りたがっているの。あの時は、クレイジーだった生活をしていたので、彼女達をできるだけツアー連れて行かないようにしていたから、今少しづつ話すことをしているの。この間、Duaneの娘ガラーディル(グラーデル)と会った時、「父は2歳になる時に死んじゃったから、私は父のことをほとんど覚えていないの。父がどんな人だったか知りたいと」と言っていて、本当に可哀想だったわ。
ジョニーさんの奥さんアンさんもそれを聞いていて、「本当にそうなのよ。彼女がお父さんのことを何も知らないなんて本当に可哀想・・・。」と話して、みんなしんみり・・・。
B:みんなで彼女を見守らなくちゃね。
私:クラプトンとの思い出を話してください。
B:クラプトンとは、デラニー&ボニーの時に初めてに会ったの。その時、彼はB.B.キングやフレディ・キングからものすごく影響を受けていたけど、まだアルバートの良さをあまり知らなかったのよ。だから、絶対にアルバートを聞いたほうがいいと勧めてよく聴かせたわ。彼はあれから歌もうまくなって、今も大活躍してるわね。
私:彼は、去年の冬日本へも来てライブをやったので観にいきました。1974年以来彼のコンサートを観て来ましたが、今まで一番良かったと思います。
B:彼は、今結婚して子供もできて充実しているのよ。息子が亡くなった時は本当に可哀想だったわ。でも乗り越えてくれてよかったね。彼は、今たしか日本で住んでいると聞いたことがあるけど・・・・。
私:住んでいるかどうか知りませんが、日本が好きみたいでよく来ているようです。
B:私も行ってみたいな。行ったら案内してくれる?
私:もちろんですよ。今回のお礼もあるのでその時は是非手伝わせてください。日本でライブをやるなら知り合いのプロモーターをご紹介しますよ。
B:私って結構日本にもファンがいてくれるみたいね。ホームページを作ったらすぐに日本から「いつ来るの?」というメールがいっぱい届いたわ。
ボニーさんは、またデラニー&ボニー時代のことを振り返って、話してくれました。
B:その頃はジャニス・ジョプリンとよくつるんで遊んだわ。あるツアーで一緒になった時、二人ともあれですごくハイになっていて、空港でボディチェックを受けて止められてチェック室で調べられている時なんて、外を通る人に向かって二人でパッ、パッと服を開けて自分達の裸を見せて、通る人の驚く反応みて面白がっていたわ。今じゃあ考えられないね。ハレルヤ!(彼女はやたらこの言葉を叫ぶのです)
あの頃は、彼だけでなく、ジョージ・ハリスン、デイブ・メイソンなどいっぱい有名な人が私達のバンドに入りたがってしょうがなかったの。その時私達は彼らが欲しいものはすべてあげたわ。もう少し頭を使ったらもう少しお金が残っていたかもしれないけどね、そんなことはどうでも良かったの。ハレルヤ!
ボニーさんは、結局10時過ぎまで付き合ってくれました。
Thanks Anywayのコーラスをお願いすると、「この曲は奥さんに作った曲でしょ。彼女に申し訳なくて一緒には唄えないわ。」とか、It‘s only your smileの歌詞を読んでいて、「私もこんな言葉を誰かに言われて見たい!so sweet!」とはしゃいでいました。ジョニーさんはそれを見ながら、ぶふふっ、と笑っていました。
彼女は、私の家族の写真はないのかと聞くので、コンピュータに入っていると明けました。彼女は、デスクトップにある岩下志麻を見つけて、「この人が奥さん?」と聞くので、「いや、この人は私が中学の時から大好きな女優さんです。今もう62歳なんですよ。」話すと、なんで私と同じような年でこんな綺麗なのという驚いた顔をするので、「いや、この写真は現在ではなく、多分彼女が30代の頃の写真だと思います。don‘t worry」と話しました。
帰り際、彼女からこのレコーディングは気分がよくて本当に楽しかったと感謝されました。私は思わず、「I‘m waiting to see you since1969!本当に今回お会いできて光栄です」と話しました。
「おーっ、ハレルヤ!」と彼女にキスされて、もう私はふらふら・・・。
つづく。
「番 外」今ロスのサンセット通りにあるホテルに滞在しています
Date : 2002/06/13 (Thu)
アラバマからの3時間のジェット・ラグで眠くてしょうがありません。
しかし、今夜はレイカーズがチャンピオンになったので、12時を過ぎてもサンセット通りが行きかう車からクラクションを鳴らし続けて騒がしく、寝れません。
ここへ来る前にアラバママのコレクターのところへ寄ってすごいギターを見てきました。それから昨日は、ロス郊外の昔から知っているコレクターの家へお邪魔して、これまたいいの見せていただきました。この件はまたゆっくり書きますが、ジェリーとギターを値踏みしている時に、自分が楽器屋だったことを久し振りに思い出しました。
おやすみなさい。
[EPISODE 64]アメリカ・シリーズ第14弾。マッスル・ショールズ・サウンド・スタジオ9
ジョニーさんと打ち合わせ。ジミー・ジョンソンのスタジオへ訪問。
Date : 2002/06/19 (Wed)
今日も今日とて、サムと最後の朝食と思ったのですが、彼もここを離れがたくないらしく、もう一日いることになりました。
食事中の会話。
サム:「クニオは、昔にサタデー・ナイト・ライブの番組でデイブ・グルーシィがサムライ・デリカッテッセンやサムライ・テーラーをやっていたのを知っているのか?」
私:「もちろんだよ。サムライ・デリカテッセンが好きだったな。」サム:「実はあの頃、みんなが俺の事をサムライ・テーラーと呼んでいたんだ。サム・テイラー、サム・テイラー、サムライ・テーラー・・・だろ。」
私:「本当だ。いいね。これからサムライと呼ぶことにするよ。サムライの漢字を教えるから、サムライ・テイラーって書いたら後ろに“侍”と書くんだよ。いいことがある。日本へ帰ったら、“侍”とスタンプを作って送ってあげる。」
サム:「スタンプって?何それ?」
ジェリーが、サムに日本はサインよりもスタンプ社会なことを説明しました。
マッスル・ショールズ・サウンド・スタジオへ行くと、ジョニーさんがアナログからデジタルへ音源を移していました。さっそく、ジョニーさんと曲毎に各楽器のバランスの取り方を確認しましたが、ジョニーさんは私がどうしたいか把握してくれているので、あまり手間がかかりませんでした。明日、ジョニーさんのスタジオへお邪魔して、もう少し細かく打ち合わせをすることにし、スタジオをあとにしました。
夕方、ジミー・ジョンソンさんのスタジオへお邪魔することにしました。出迎えてくれたジミーさんは、相変わらずファンキーです。
彼は、さっそく自分が最近プロデュースしたJason Gee Grisbyという若手ミュージシャンのCDを聴かせてくれて、その音に合わせて例の踊りを始めました。そのあとに今度は、息子のJay JohnsonさんがやっているバンドSouthern Rock AllstarsというバンドのCDを聴かせてくれました。ジミー家は、お父さんCowboy Ray、息子がロックバンドのギタリストと、親子3代ミュージシャンの家系です。80歳を超えるお父さんは、自分で車を運転してスタジオへよく遊びに来てくれました。お父さんのシャキシャキした健全さに。私達もタジタジでした。
このあたりは川や沼が多いため、蚊を駆除するのが大変なそうで、庭にツバメに似ているブラジルからやってくる鳥の巣が作ってありました。その鳥は蚊を一日100匹食べてくれるそうです。
6月11日朝、サムと最後の朝食をとりました。サムは、このCDが予定通り秋に発売ができて、もし可能だったらジェリーと日本ツアーへ行って演奏をしたいと言ってくれたので、前向きに検討したいと話して別れました。
マッスル・ショールズを離れる前に、マッスル・ショールズ・サウンドのもうひとつFameスタジオへお邪魔しました。ここには、Duaneの写真が飾ってあります。Duaneは、このスタジオと契約していろんなレコードに参加していたそうです。彼が立っていた写真に写っている壁などは30年以上経過してもそのままでした。ここのアシスタントをしているベーシストが、先日私達がレコーディングしているのを観に来ていたらしく、入っていくとすぐにわかった
みたいで挨拶しにきました。
Fameスタジオへお邪魔してみて、ジョニーさんが今回のレコーディングにマッスル・ショールズ・サウンド・スタジオを選んだ理由がわかりました。Fameもスタジオとしての内容はすごく良いんですが、ただ、街中にあることと、かなり小さく、クッキングする場所もないのです。それと比較して、マッスル・ショールズは、テネシー川のほとりにあって、ビルも大きく、たくさんの人が集まってもストレスを感じない広さはだったのです。さすが、ジョニーさんですね。行き届いた配慮に感謝します。
ついに、マッスル・ショールズを離れる時が来ました。このレコーディングに参加または快く協力していただいた皆さんに、本当に感謝しております。限定された短い時間だったため、毎日遅くまで付き合っていただきまして、申し訳なかったと思っています。特に、ジョニーさんの参加者全員に対する包み込むような優しい心遣いには、ストレスもプレッシャーも感じることもなくできました。どうお礼の言葉を言っていいかわかりません。
たかだか、数日で11曲のレコーディングを完了できたのも、いつもライブに付き合ってくれる東京と名古屋のバンド・メンバーの協力なくして絶対にできなかったと思います。ライブCDRが、こちらへ来て打ち合わせをものすごく円滑にしてくれました。
メンバー全員が一度に録音する形式をとって、いわゆるスタジオセッション形式で録音したにもかかわらず、ほとんどの曲は1回目か2回目のテイクでOKでした。オーバーダブは、リード・ヴォーカルとコーラス、ギター・パートは録音中届いたLPstd‘59に音の差し替えたことと、最後に弾いたコーラル・シタール(マッスル・ショールズ・スタジオ所有で、昔Duaneも弾いたもの)だけでした。皆さんにかなりそれぞれの楽器素の音を皆さんに聴いていただけると思います。
予定になかったスコット・ボイヤーさんには、私のヴォーカル指導ばかりでなく、バック・ヴォーカルも引き受けていただき本当に感謝しています。それに、デビットフッドさんと結成したDecoysのCD、Mitch Mcgeeさんと製作したCDばかりでなく、DuaneのインタビューのCDRをプレゼントしてくれました。
ボニーさんの衰えないパワーには、元気付けられましたし、普段聞けない話をいっぱいしていただきました。もうあげると切りがありません。本当に皆さんに感謝する気持ちばかりです。
ただ、ちょっと残念だったのは、最終日にマッスル・ショールズ・サウンド・スタジオのマネージャーから、「経営者は、もうあまりスタジオ経営に興味を持っていなく、近々スタジオを売り出すかも知れない」と聞かされたことです。私もジェリーも、今回が楽しかっただけにちょっとショックでした。
Duaneの友達ジミーさん、ポールさん、そしてジョニーさんなど皆さんが、60歳前後になった今も、元気に現役を続けてくれてすごく嬉しかったです。人ばかりでなく、ハモンドB−3やウィリッツァーなどギター以上に維持することが難しい往年の名器も未だに健在で本当に良かったです。今回来てみて、自分の音の理想が何十年経過してもまだここにあって、そしてそれに間に合うことができて本当に良かったとつくづく思いました。
いつかまたここへ来る機会があった時に、皆さんとまた今回のような楽しい演奏をしたいです。
どうか、もし、このスタジオが売り出された時に買われる次のオーナーさんも、ここに集まるミュージシャン達に理解のある方であることを祈ります・・・・・。
最後に、マッスル・ショールズの意味をお話しします。
テネシー川は、ミシシッピー川のように北から南へ下る一般的な川と違って、一度北へ流れてからもう一度南へ下ってくる川です。蛇行している割には、川の流れの勢いがすごくて、氾濫する時はかなり各地でひどい被害をもたらしたそうです。そのものすごいパワーで氾濫する様子を表現したのがマッスル・ショールズだったのです。1930年代にダムができて、その氾濫はなくなったそうです。
つづく。
[EPISODE 65]アメリカ・シリーズ第15弾。ジョニー・サンドリン宅訪問。Duaneの形見をいただいてしまった!
Date : 2002/06/19 (Wed)
6月11日、マッスル・ショールズから車で約2時間ぐらい走ったところにあるジョニーさんのスタジオ兼自宅へ訪問することになりました。
その前に、奥さんのAnnさんへ感謝の気持ちを伝えたくて、花屋さんへ電話して花束を贈るように手配しました。緊張感の続くレコーディング中に、Annさんが作ってくれた手料理と、そのいつも優しい笑顔に私はどれだけ心助けられたことか、はかりしれません。せめて、花束だけでもと思って贈らせていただきました。
ジョニーさん宅へ着くと、ジョニーさんが「Long time no see!(久しぶり)」と、今回レコーディングした曲のタイトルを恥ずかしそうに言って出迎えてくれました。
ジョニーさんは、前にも書いたかもしれませんが、本当にシャイな人です。あまり冗談も言わないし、まじめで落ち着いた方です。一緒に仕事をしていて、きっとアワーグラスが2年以上持ったのも、Duaneが亡くなった以降オールマン・ブラザーズが何とか解散せずにもったのも、この人が陰でまとめていたんだなと思いました。彼と別れる前に絶対このことを聞いてみようと思っていて、それが今日しかないので思い切って聞いてみることにしました。
ジョニーさん(以下):「その通りだよ。アワーグラスの時はみんな若くて血気盛んでね、おまけに自己主張も強くて大変だったよ。バンド内で誰かがまとめないとどうにもならなかったんだ。オールマン・ブラザーズの時もそうだった。誰もスタジオへ来ないのでみんなを集合させるのが本当に大変だったよ。うふっふ。」
私:「やっぱり! 私もジェリーも絶対にそうだと思っていました。」
J:「うふっふ。」
スタジオへ入ると、もうそれは天国のような感じです。
見たこともないDuaneの写真、アワーグラスの写真、そしてクラプトンとDuaneが写っているデレク&ザ・ドミノスのライブ写真など多数が飾ってありました。
初めて見るDuaneの写真のことを聞くと、この写真はDuane自身が一番気に入っていた写真だそうで、3枚だけ複製した内の一枚を彼からもらったそうです。亡くなる前にDuaneから返してくれと言われたけれど、もうもらったものだからと嫌だと断ったそうです。ちなみに、後の2枚は未だに誰が所有しているかわからないとのことでした。
そうやって写真が飾ってある中に、Duaneが1969年1月1日に、自分自身に向かって書いたスローガンみたいな手紙が飾ってありました。それをデジカメに収めようとしていたら、Annさんが入ってきて、Annさん(以下A):「クニオ、その必要はないわ。ここに飾ってある写真とこの手紙のコピーを貴方のために取っといてあげたから。」
私:「えっ、いいんですか?」
A:「主人も言っていたけれど、貴方にはSomething specialを感じるの。だから、いつもこんなことは滅多にしないけれど、特別に差し上げたいの。」
と、何枚もそこに飾ってある写真と、Duaneが書いた手紙の複写をいただきました。
A:「それから・・・、この服のこと知っている?」と見たことのある模様の生地を見せられまし
た。
私:「これって、Duaneがレイラ・セッションの時に着ていた服ですよね。」
A:「そう、Duaneがその後ガール・フレンドに上げたの。Duaneが亡くなってから、彼女が仲間に少しずつ切って分けたの。私達は袖の部分をいただいたわ。」
私:「すごいですね。」
A:「この袖から、少し切って友達に上げたら、彼女がその切れ端をペンダントにして送り返してきたの。これがそうよ。」と、見せてくれました。
それは、小さなガラス管のようなものに入っているものでした。
A:「彼女は、主人のジョニーのために作ってくれたらしいんだけれど、彼はまったく興味がなく、ずっとつけていないの。だから、貴方に差し上げることにするわ。」
私:「え~っ!そんなあ、いただけませんよ。こんな大事な物を・・・。」
ジョニーさん:「私は、この間スタジオでも言ったと思うけれど、今までにいろんなギタリストと仕事してきたけれど、クニオほどDuaneを感じたことはなかった。それに、短い時間だったけれど本当に楽しかったよ。だから、これは私からももらって欲しいんだ。」
私:「ジョニーさん、一日8時間労働契約だったにも関わらず、毎日5時間以上超過してしまい、その追加料金を取らないとお話いただいた上に、こんなにすごいプレゼントまで・・・、本当にもう甘えることはできませんよ。」
ジェリー:「お二人がそう言ってくれているんだから、いただいておきなよ。」
A:「これは、貴方がつけるべきもの」と、首にかけてくれました。
それから、この間、今までに何回も納屋を掃除しても探したけれど出てこなかったアワーグラスの練習テープが出てきたと、聴かせてくれました。このテープはまだ6人しか聞いたことがないんだそうです。テレコで録音したものでしたが、グレッグの唄はすごかったです!名曲“Try a little tenderness”をものの見事に唄いきっています。Melissaの前身のような曲もありました。是非、このテープをアワーグラス・アンソロジーにしてCD化して欲しいものです。
A:「この離れの家をなぜスタジオにしたか教えてあげるわ。アワーグラスを結成した頃、いつもここで練習していたの。その時は当然ただの家だったけれど、Duaneはじめメンバー全員で寝泊りしていたわ。私は、ジョニーとは学生時代からの友達で、いつもみんなを見守っていたの。最初にグレッグがここへ来た時は、歌い方がちょっと黒人っぽすぎて、レコード会社からクレームがついていたから、ここで練習したりいろんな人の音楽を聴いて自分らしい歌い方を学ん
だのよ。今流れているB.Bキング・メロディーもロスのウィスキー・ア・ゴーゴーで昼間に練習した時のテープよ。すごく彼らしく歌っているでしょ。アワーグラスをロスで解散して帰って
きた時も、みんなここでボーッとして何日も何もしないで寝泊りしていたわ。その後、ジェリー・ウィクスラーから、またDuaneがバンドを作るので、みんなに協力して欲しいとの要請があったけれど、アワー・グラスのメンバーはもうバンド活動に興味がなくなっていて、断ったの。その時、Duaneはオールマン・ブラザーズのヴォーカリストをエディ・ヒントンに頼みたかったのよ。グレッグがまだロスにいなければならなかったからね。でも、エディもそれを断ったわ。今考えるとそれで良かったのよ。グレッグを呼び戻さなければならなくなったからね。その後のオールマン・ブラザーズのことを考えるとそれでよかったのよ・・・。
その時、チャイムが鳴って、娘さんが届いたバラの花を持って入ってきました。Annさんは、本当に感激してくれて、その様子を見ていて送った私も嬉しくなりました。もっと、ゆっくりしていって欲しいとお願いされましたが、次の約束があり、泣く泣くジョニーさん宅をあとにしました。
ジョニーさんとAnnさんは、道まで出て、私達が見えなくなるまで手を振りながら見送ってくれました。
つづく。
[EPISODE 66]帰ってきました。そしてアメリカのプレゼント第一弾!
Date : 2002/06/22 (Sat)
こんにちは。岸田です。今週はじめにやっと名古屋へ帰ってきました。ここの蒸し暑さは、マッスル・ショールズとどっこいどっこいです。
皆さん、マッスル・ショールズのレコーディング模様を、楽しんでいただけましたか?行く前から、参加メンバーのことはだいたい聞かされていましたが、とても信じがたく、事前に予告して行く勇気はありませんでした。おなじみの皆さんから驚きと励ましのメールをいただきまして、大変心強く演奏ができました。本当に有難うございます。
レコーディング半ばまで時差ぼけがひどく、長時間睡眠をとれなかったため毎日朝6時におきてしまい、それから3時間ぐらい掛けて前日に起こったことを四方山話に書いた次第です。今振り返ると、かえってそれが好都合だったと思います。帰りの飛行機の中で2話を書きましたがそれだけでも内容が濃すぎて書ききれませんでした。まして、もし一度に全部の日のことを書こうとしたらとても思い出せないことばかりだったかもしれません。
メンバーに毎日起きたことをメールマガジンに掲載していると話すと、全員が「俺のことは良く書いてくれよ。ここは俺が弾いているのを伝えてくれ。みんなによろしくな!」と、60歳近い皆さんが子供のようにはしゃいでいました。普通なら、アメリカでは彼らの年の人は、リタイヤーするのが普通なのに、みんな本当に演奏を楽しんでいます。
イタリア・サッカーチームの監督より平和でいいですね。
さて、今、新聞記者のエマニュエル君が、私の書きなぐった文を読みやすくまとめてくれていますので、その部分を「Making V.G.S CD at Musle Shoals Sound Studio」と題して、書ききれなかったことを足して改めてご紹介いたします。こうご期待。
ついては、この四方山話の読者の皆さんへ、これからアメリカで入手してきた私の宝物をプレゼントしたいと思います。
その第一弾は、メイコンのBig House(Duane達が住んでいたアパート)で、買ったオールマン・ブラザーズのライブCDを1名にプレゼントします!
このCD「Allman Brothers Brand」は、1970年12月13日ワシントンD.Cにあるアメリカン ユニバーシティでオーディエンス録音されたものを、通販のみで販売開始し始めたばっかりのものです。
Statesboro Blues,Trouble No More,Don’t Keep Me Wonderin’など全7曲です。
締め切りは6月23日午後11時59分です。
氏名、年齢、住所、電話番号をお忘れなく。できれば四方山話へのコメントをください。
では、ふるって応募ください。
今から東京へ行きます。